tenjin95さんのブログ(つらつら日暮し)の「「本来無一物」の宗乗的参究」という記事を見ていて、ちょっとインスピレーションを得たので、この記事を書くことにした。あいかわらず“初心者さんお断り”の小難しい話だろうが、ネットなどで仏教用語の意味を調べながら、大意だけでも把握していただければ幸いである。
これは、中国の禅宗が北宗禅と南宗禅に分かれる時の話である。五祖弘忍が衣鉢を継がせるにあたって弟子たちに「自ら本性般若の智を取り、各々一偈を作りて我に呈せよ」と命じた際、弟子の上座たる神秀と後に衣鉢を継いで六祖となる慧能とが偈を呈した。
神秀の偈は、
身はこれ菩提樹 心は明鏡の台の如し
時時に勤めて払拭して 塵埃を有らしむること莫れ
一方、慧能の偈は、
菩提 本より樹無し 明鏡も亦た台 無し
仏性は常に清浄なり 何処(にか塵埃有らん
又の偈としては
心はこれ菩提樹 身は明鏡の台の為(たり
明鏡は本より清浄なり 何処にか塵埃に染まん
『正法眼蔵』によると、
菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず
本来無一物、何れの処に塵埃有らん
両者の決定的違いは、神秀が分別のレベルに留まっているのに対して、慧能は無分別の境地にまで達しているという点にある。その全体像をイメージしやすくするために、以下に簡単な図を作ってみた。
┌――┬――┐
|塵埃|明鏡|……言葉と分別の世界(現象の世界)
├――┴――┤
|仏性常清浄|……言葉と分別とを超えた世界(本性の世界)
└―――――┘
明鏡は菩提(悟り・覚り)の象徴であり、塵埃は煩悩の象徴である。そして、仏性常清浄は空の理を表わしている。鏡が目の前の対象を映し出す働きであるように、菩提は世の実相を映し出す心の状態である。塵埃が鏡の働きを妨げる物であるように、煩悩は菩提の働きを妨げる心の状態である。(菩提を妨げるのは煩悩障のほかに所知障もあるが、ここでは煩悩で代表させておく。)そして、慧能の三つの偈を比べれば分かるように、仏性常清浄とは菩提という明鏡の本性たる清浄のことであり、それが本来“無一物”であるのだから、それは空っぽ(すなわち空)なのである。
そこで、神秀の偈は以下のような意味になるだろう。身は、菩提という果実(仏果)の生ずる樹である。心は、磨かれて菩提という明鏡になっていく土台である。その明鏡の働きを妨げる塵埃たる煩悩が生じてきたならばその時々に煩悩を拭い去るように勤めて、菩提の働きを障りなく作用させるべきである。
菩提へ向かう修行のやり方としては正しい。だが、どうやって塵埃を拭うのか。神秀は塵埃の有無ばかり気にかけて、この世ないし心の現象面のみに関心が向かってしまい、明鏡を明鏡として成立させているその本質までは表現しきれていない。
一方、慧能は、菩提という明鏡の本質をその素材たる身や心に求めない。銅板も鏡になれば水も鏡になるのだから、必ずしも土台となる素材そのものが鏡の働きの根源であるわけではない。むしろ「何も無い」という性質・特徴が、菩提という明鏡の本質だとする。鏡は、その基盤となる銅板などが自らの姿を徹底して顕さないからこそ、自らよく対象を映し出せるのである。鏡が鏡として機能する本質は、この“無”にある。菩提も同じく、心が空っぽである時にこそ対象の実相をよく映し出せる。
磨かれた“無”によって明鏡が明鏡たりうるように、認識された空によって菩提は菩提たりうる。「明鏡は本より清浄」であるように、心もまた「本より清浄」という性質を受け容れてこそ菩提となる。心が何かの知識を得るのではなく、かえって「本より空であること」を悟る程度に応じて、心の鏡が明瞭に対象を映し出すようになる。
自己自身の空を体得すれば、「煩悩はその根本において空である」ということも認識できるようになる。菩提と煩悩の違いは、心が空を受け容れるか受け容れないかの違いである。煩悩は払拭されるべきものではなく、空によって清められて菩提に転換すべきものである。無である空には、塵の付きようもない。塵はせいぜい空中に漂っているだけだが、その塵さえも空すなわち諸行無常・諸法無我の理によって分解されて無となる。菩提という明鏡もまた、そのような“無”をその本性としている。塵という有は“無”に支えられつつそれを拒否して成立しているが、菩提という明鏡は“無”に支えられつつそれを受け容れて成立している。この“無”に達することこそが慧能の偈の言わんとすることである。
これに関連して、煩悩即菩提についてもコメントしておこう。煩悩即菩提の煩悩とは、菩提の鏡に映し出されているかぎりでの塵埃である。修行者は、煩悩をこのように対象化する以前の、煩悩との原初的な同一化状態に留まっていてはならない。煩悩に呑み込まれたままであってはならず、菩提の鏡に照らして煩悩を煩悩として“あきらめる”(明らかに知る)ときに、“即”が生じて来る。未だ煩悩の形をとったままであっても、そこには僅かながらも菩提が染み込んでいなければならず、それはまさしく煩悩の中に空の理が浸透していなければならないということである。煩悩の単なる現状肯定ではなく、煩悩が少しずつでも悟りの方向へ動いていくダイナミズムとして、煩悩即菩提がある。
私はこれを如来蔵ないし仏性の観点からも捉えてみたい。煩悩即菩提は、始覚(悟りの始まり)である。完全な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に到達するのにはほど遠い。しかしながら、完全な悟りへと向かうダイナミズムが生じてしまったときには、すでに完全な悟りが修行者の根底ないし背後に貼り付いている。本覚ないし初発心時便成正覚と言われるものがそれである。最初に発心した時点で正覚など成就しているはずなどないのだが、この“可能性として貼り付いているもの”が本覚であり仏性である。そして、だんだんと成長していく菩提が如来蔵であるといってもよいかもしれない。(この場合の如来蔵とは、「如来の胎児」の意味であって、もし如来蔵を「如来の母胎」という意味にとるならば、仏性と同じ位置づけである。)
ところで、煩悩は世界のあらゆる場所に生まれて来る。すなわち塵埃は至る所にある。また、そこに僅かながらも菩提が入り込んでいるならば、菩提もまた至る所にある。菩提という鏡に塵埃が付着しているのだから、そこに映し出された世界は、半ば煩悩の姿をし半ば菩提の姿をしているのは当然だろう。一方、煩悩と菩提を一枚の心として成立させている空そのものは、言葉と有(存在のイメージ)とを離れて寂静なので、世界のいずれの所からも離れている。そのような寂静なる本来無一物の世界でこそ、「本より塵埃がない」と言い切れるのである。
さて、曹洞宗では「修証不二」と言われ、「即心是仏」と言われる。以下の解説が道元禅師の意をどれだけ汲み取れているわからないが、上の図に当てはめてみると、仏性常清浄や本来無一物が証、菩提の鏡から塵埃を払う行為が修ということになる。これは不二である。空の理、空の働きがあってこそ菩提が生じるからである。もしも空を全く知らずに坐禅をしていたら、何十年坐っていても修のみで完結し、決して証は得られないだろう。証に裏づけられてこそ、修行が修行として成立する。また、煩悩も菩提も心の中に生ずるものだから、この修行は即心である。そして、そこに仏(すなわち空の理と空の智)が浸透してこそ、修行が修行として成立する。
それとは反対に、証や仏が全く分からずに修証不二や即心是仏を理解しようとすれば、なんであれ修行の行為がそのまま悟りの証だと勘違いしたり、煩悩の心がそのまま仏だと勘違いしたりすることになる。だから禅宗では、「本来無一物」だの、「主人公」だの、「本来の面目」だの、「仏性」だの、「無」だの、とにかく「空」と同等のものに目を開かせようとする。仏道修行を志した時点ですでに仏性はごそごそと動き始めてはいるものの、空を眼前にしてありありと体験した見性の後でこそ、煩悩を解消していく修行が本格的に始まるのである。悟後の修行こそが大切なのであって、見性は大目標ではあっても最終目標ではない。
北宗禅は見性の前の修行のごとくであり、塵埃を払おうにも遅々として進まない。しかし、南宗禅もまた見性しただけで完全に悟ったかのような勘違いに陥る。たとえ空が本当に分かっても、それたけでたちどころに煩悩が消え去ってしまうわけでもない。そこで、空が本当に分かったのなら、その空に基づいて身も心も調え直す必要がある。

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