2009年7月10日

YouTubeで護摩祈祷を見る

 護摩祈祷とは、細長い木の板にお願いごとを書いて燃やして祈願するの儀式である。今回は護摩のYouTube動画を紹介するのが目的なのでその詳しい宗教的意義は述べないが、お願いごとに纏わるわずらいごとや悩みごとを焼き尽くすという意味があると心得ておけばよろしかろう。お願いごとが叶うかどうかは普段の心がけ次第。(笑)
 
 
 
 以下の動画は全体的イメージとして編集されているので護摩祈祷を全く知らない人には参考になるだろうと思う。私はこの護摩はあまり好きではないのだが、それは、この場合には病気治しなどの世俗的関心に意識が向き過ぎており、病気を病気として諦める彼岸への意識が少なすぎるからである。

Amazing Fire Ceremony

 
 
 
 編集していないほうがお参りしたときに近い感覚が得られるだろうから、こちらを見てみるといい。あいかわらずうるさい(笑)が、この騒々しさのなかに静寂を感じられたら護摩修法の何たるかがわかるだろう。煩悩即菩提かも・・・。(^^ゞ

真言宗智山派 護摩修行

 
 
 
 ふつうは不動明王の真言を唱える不動護摩なのだが、こちらは最初に毘沙門天の真言を唱えている。

奈良信貴山千手院の毘沙門護摩

 
 
 
 護摩祈祷には病気平癒や家内安全、交通安全、水子供養などいろいろあるのだが、醜悪な煩悩が比較的少ない(?)恋愛成就の祈祷なんていうのもある。こちらは火がおぞましくない(笑)のでご紹介。

恋愛相談 恋愛成就祈祷

 
 
 
 修験道の護摩では、それに先立って山伏問答が行なわれる。以下の動画は埋め込みが許可されていないのでYouTubeサイトからどうぞ。
 
Yamabushi-Mondou (山伏問答)
Saito-Goma/Gaya-in Temple, Hyogo (伽耶院/採燈大護摩供)
 
そのほかのサイトでは、
喜蔵院/山伏問答
 
内容を文字で確認したい方はこちらでどうぞ。
 
 
 
 
 


 
 
 
 
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2009年6月30日

CDで曹洞宗のお経

 葬式に坊さんが来ないでお経のテープだけ流していたという話をときどき聞くが、お経は生きているうちに聞いたり唱えたりするものである。最近はCD付きの本が多く出版されており、音声によって仏教に接するというのも有益である。主要な各宗派の読経がCD化された本が出版されているが、今回は曹洞宗のものを取り上げたい。

  


 私のおすすめは左から緑・黄緑・黄色の順である。

 左側の『実修 曹洞宗のお経』は、大本山永平寺東京別院・長谷寺ちょうこくじの作法にしたがってお坊さんが唱えているCDなので、そのまま法要に参加しているような感じで聴くことができる。また、陀羅尼が二つ入っている。

 中央の『曹洞宗のお経』のCDは、女声も入っていてちょっと素人臭く感じるだろうが、これは在家者の日常のおつとめをモデルにしたようである。文章による解説だけを見れば、上の本よりも多くのお経を学ぶことができる。

 右側の『わが家の宗教 曹洞宗』は、修証義が第五章しか入っていないという点で上二者に劣る。また、お経の原文および現代語訳も修証義しかないので、あまりお経の勉強にはならない。ただし、曹洞宗の歴史や教義などは上二者よりも詳しく、曹洞宗のアウトラインを捉えるのには便利な本だろう。

 以下に、各本に収録されたお経を列挙しておこう。(比較のために収録順を一部変更した。)

実修 曹洞宗のお経 曹洞宗のお経 わが家の宗教 曹洞宗
C
D




開経偈
懺悔文
三帰礼文
×
摩訶般若波羅蜜多心経
本尊回向文
修証義 第一章 総序
第二章 懺悔滅罪
第三章 受戒入位
第四章 発願利生
第五章 行持報恩
法華経観世音菩薩普門品偈
×
先亡諸霊回向文
四弘誓願
大悲心陀羅尼
消災妙吉祥陀羅尼
普回向
×
開経偈
懺悔文
三帰依文
三尊礼文
般若心経
本尊上供回向文・略三宝
修証義 第一章 総序
第二章 懺悔滅罪
第三章 受戒入位
第四章 発願利生
第五章 行持報恩
普門品偈
在家略回向・略三宝
×
四弘誓願
×
×
普回向・略三宝
×
開経偈
懺悔文
三帰礼文
三尊礼文
摩訶般若波羅蜜多心経
本尊上供回向文
×
×
×
×
修証義 第五章 行持報恩
×
×
先亡回向文
四弘誓願文
×
×
普回向
法話





法華経如来寿量品偈
延命十句観音経
普勧坐禅儀
五観の偈
大悲呪(大悲心陀羅尼)
法華経如来寿量品偈
仏遺教経
消災呪
十句観音経
舎利礼文
甘露門
参同契
宝鏡三昧
修証義
普勧坐禅儀
五観の偈・略飯台偈
 
 
 
 
 
 
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2009年6月23日

修証不二

 tenjin95さんのブログ(つらつら日暮し)の「「本来無一物」の宗乗的参究」という記事を見ていて、ちょっとインスピレーションを得たので、この記事を書くことにした。あいかわらず“初心者さんお断り”の小難しい話だろうが、ネットなどで仏教用語の意味を調べながら、大意だけでも把握していただければ幸いである。

 これは、中国の禅宗が北宗禅と南宗禅に分かれる時の話である。五祖弘忍が衣鉢を継がせるにあたって弟子たちに「自ら本性般若の智を取り、各々一偈を作りて我に呈せよ」と命じた際、弟子の上座たる神秀と後に衣鉢を継いで六祖となる慧能とが偈を呈した。


神秀の偈は、
  身はこれ菩提樹 心は明鏡の台の如し
  時時に勤めて払拭して 塵埃を有らしむることなか

一方、慧能の偈は、
  菩提 本より樹無し 明鏡も亦た台 無し
  仏性は常に清浄なり 何処いずくにか塵埃有らん

又の偈としては
  心はこれ菩提樹 身は明鏡の台のたり
  明鏡は本より清浄なり 何処にか塵埃に染まん

『正法眼蔵』によると、
  菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず
  本来無一物、何れの処に塵埃有らん


 両者の決定的違いは、神秀が分別のレベルに留まっているのに対して、慧能は無分別の境地にまで達しているという点にある。その全体像をイメージしやすくするために、以下に簡単な図を作ってみた。

┌――┬――┐
|塵埃|明鏡|……言葉と分別の世界(現象の世界)
├――┴――┤
|仏性常清浄|……言葉と分別とを超えた世界(本性の世界)
└―――――┘

 明鏡は菩提(悟り・覚り)の象徴であり、塵埃は煩悩の象徴である。そして、仏性常清浄は空の理を表わしている。鏡が目の前の対象を映し出す働きであるように、菩提は世の実相を映し出す心の状態である。塵埃が鏡の働きを妨げる物であるように、煩悩は菩提の働きを妨げる心の状態である。(菩提を妨げるのは煩悩障のほかに所知障もあるが、ここでは煩悩で代表させておく。)そして、慧能の三つの偈を比べれば分かるように、仏性常清浄とは菩提という明鏡の本性たる清浄のことであり、それが本来“無一物”であるのだから、それは空っぽ(すなわち空)なのである。


 そこで、神秀の偈は以下のような意味になるだろう。身は、菩提という果実(仏果)の生ずる樹である。心は、磨かれて菩提という明鏡になっていく土台である。その明鏡の働きを妨げる塵埃たる煩悩が生じてきたならばその時々に煩悩を拭い去るように勤めて、菩提の働きを障りなく作用させるべきである。

 菩提へ向かう修行のやり方としては正しい。だが、どうやって塵埃を拭うのか。神秀は塵埃の有無ばかり気にかけて、この世ないし心の現象面のみに関心が向かってしまい、明鏡を明鏡として成立させているその本質までは表現しきれていない。


 一方、慧能は、菩提という明鏡の本質をその素材たる身や心に求めない。銅板も鏡になれば水も鏡になるのだから、必ずしも土台となる素材そのものが鏡の働きの根源であるわけではない。むしろ「何も無い」という性質・特徴が、菩提という明鏡の本質だとする。鏡は、その基盤となる銅板などが自らの姿を徹底して顕さないからこそ、自らよく対象を映し出せるのである。鏡が鏡として機能する本質は、この“無”にある。菩提も同じく、心が空っぽである時にこそ対象の実相をよく映し出せる。

 磨かれた“無”によって明鏡が明鏡たりうるように、認識された空によって菩提は菩提たりうる。「明鏡は本より清浄」であるように、心もまた「本より清浄」という性質を受け容れてこそ菩提となる。心が何かの知識を得るのではなく、かえって「本より空であること」を悟る程度に応じて、心の鏡が明瞭に対象を映し出すようになる。

 自己自身の空を体得すれば、「煩悩はその根本において空である」ということも認識できるようになる。菩提と煩悩の違いは、心が空を受け容れるか受け容れないかの違いである。煩悩は払拭されるべきものではなく、空によって清められて菩提に転換すべきものである。無である空には、塵の付きようもない。塵はせいぜい空中に漂っているだけだが、その塵さえも空すなわち諸行無常・諸法無我の理によって分解されて無となる。菩提という明鏡もまた、そのような“無”をその本性としている。塵という有は“無”に支えられつつそれを拒否して成立しているが、菩提という明鏡は“無”に支えられつつそれを受け容れて成立している。この“無”に達することこそが慧能の偈の言わんとすることである。


 これに関連して、煩悩即菩提についてもコメントしておこう。煩悩即菩提の煩悩とは、菩提の鏡に映し出されているかぎりでの塵埃である。修行者は、煩悩をこのように対象化する以前の、煩悩との原初的な同一化状態に留まっていてはならない。煩悩に呑み込まれたままであってはならず、菩提の鏡に照らして煩悩を煩悩として“あきらめる”(明らかに知る)ときに、“即”が生じて来る。未だ煩悩の形をとったままであっても、そこには僅かながらも菩提が染み込んでいなければならず、それはまさしく煩悩の中に空の理が浸透していなければならないということである。煩悩の単なる現状肯定ではなく、煩悩が少しずつでも悟りの方向へ動いていくダイナミズムとして、煩悩即菩提がある。

 私はこれを如来蔵ないし仏性の観点からも捉えてみたい。煩悩即菩提は、始覚(悟りの始まり)である。完全な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に到達するのにはほど遠い。しかしながら、完全な悟りへと向かうダイナミズムが生じてしまったときには、すでに完全な悟りが修行者の根底ないし背後に貼り付いている。本覚ないし初発心時便成正覚と言われるものがそれである。最初に発心した時点で正覚など成就しているはずなどないのだが、この“可能性として貼り付いているもの”が本覚であり仏性である。そして、だんだんと成長していく菩提が如来蔵であるといってもよいかもしれない。(この場合の如来蔵とは、「如来の胎児」の意味であって、もし如来蔵を「如来の母胎」という意味にとるならば、仏性と同じ位置づけである。)

 ところで、煩悩は世界のあらゆる場所に生まれて来る。すなわち塵埃は至る所にある。また、そこに僅かながらも菩提が入り込んでいるならば、菩提もまた至る所にある。菩提という鏡に塵埃が付着しているのだから、そこに映し出された世界は、半ば煩悩の姿をし半ば菩提の姿をしているのは当然だろう。一方、煩悩と菩提を一枚の心として成立させている空そのものは、言葉と有(存在のイメージ)とを離れて寂静なので、世界のいずれの所からも離れている。そのような寂静なる本来無一物の世界でこそ、「本より塵埃がない」と言い切れるのである。


 さて、曹洞宗では「修証不二」と言われ、「即心是仏」と言われる。以下の解説が道元禅師の意をどれだけ汲み取れているわからないが、上の図に当てはめてみると、仏性常清浄や本来無一物が証、菩提の鏡から塵埃を払う行為が修ということになる。これは不二である。空の理、空の働きがあってこそ菩提が生じるからである。もしも空を全く知らずに坐禅をしていたら、何十年坐っていても修のみで完結し、決して証は得られないだろう。証に裏づけられてこそ、修行が修行として成立する。また、煩悩も菩提も心の中に生ずるものだから、この修行は即心である。そして、そこに仏(すなわち空の理と空の智)が浸透してこそ、修行が修行として成立する。

 それとは反対に、証や仏が全く分からずに修証不二や即心是仏を理解しようとすれば、なんであれ修行の行為がそのまま悟りの証だと勘違いしたり、煩悩の心がそのまま仏だと勘違いしたりすることになる。だから禅宗では、「本来無一物」だの、「主人公」だの、「本来の面目」だの、「仏性」だの、「無」だの、とにかく「空」と同等のものに目を開かせようとする。仏道修行を志した時点ですでに仏性はごそごそと動き始めてはいるものの、空を眼前にしてありありと体験した見性の後でこそ、煩悩を解消していく修行が本格的に始まるのである。悟後の修行こそが大切なのであって、見性は大目標ではあっても最終目標ではない。

 北宗禅は見性の前の修行のごとくであり、塵埃を払おうにも遅々として進まない。しかし、南宗禅もまた見性しただけで完全に悟ったかのような勘違いに陥る。たとえ空が本当に分かっても、それたけでたちどころに煩悩が消え去ってしまうわけでもない。そこで、空が本当に分かったのなら、その空に基づいて身も心も調え直す必要がある。
 
 
 


 
  
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