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2007年5月22日

般若心経解説(3)観自在菩薩

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 さて、いよいよ本文の解説に入る。

 今回は、「観自在菩薩は、」まで。(笑)

 “仏説”摩訶般若波羅蜜多心経と言われる場合もあるが、実際に説法をしているのは観自在菩薩である。そこで、観自在菩薩という名前について少々詳しく論じておきたい。私の考えでは、観自在菩薩はこの経典を説くのにまさしくぴったりの菩薩だからである。

 観自在菩薩は観(世)音菩薩の別名である。梵語ではアヴァローキタ・イーシュヴァラ(連声してアヴァローキテーシュヴァラという)である。ところが、古い写本にはアヴァローキタ・スヴァラと記されているものがあり、スヴァラは「音」という意味なので、それで観音という訳が付けられたのだろうと考えられている。そして、観世音という訳になるのは、この音が“世の中の人々の声”を意味しているからである。


 アヴァローキタ(avalokita;サンスクリット表記法はこちらを参照)は ava+√lok から派生した語である。avaは「離れて」「下に」という意味の接頭辞であり、√lokには「見る」とか「照る」などの意味がある。-itaは過去受動分詞を表わす形だから、lokitaは「照ら(さ)れた」という意味になる。したがって、avalokitaは「離れて照らされた」という意味になり、これは見る主体よりは見られた対象(すなわち観念)を指すのだろう。漢訳ではこの語に「見、所見、現見、観見、瞻見、所観察」などの訳語が与えられている。

 接頭辞ava-の“離れて”は、主体が対象から距離をおくという意味であろう。ほとんどの人間は対象世界にどっぷり嵌まり込んでものを見ているが、観自在菩薩はこの世を超越しているから、観照主体と観照対象の間に一定の距離が存在する。世界の全体を見渡そうと思えば、一時的に世界の外に立たなければならないわけで、それが般若の智慧を得るための一つのポジションではないかと思う。

 接頭辞ava-を“下に”の意味にとる場合には、「見下ろす」の意味になり、「鳥瞰する」「俯瞰する」の意味になるだろう。いずれにせよ ava+√lok は、「対象から少し離れて対象の全体像を一段上から捉える」というようなイメージになるのではないかと思う。いずれにせよ「観」という訳語は、そのニュアンスをよく表わしている。

 イーシュヴァラ(Izvara)は自在天(観音の三十三身のうち、自在天身がヴィシュヌ神、大自在天身がシヴァ神とされている)を表わす言葉だが、これは形容詞として「~し得る」「~する能力がある」という意味をもち、また男性名詞として「~の所有者、支配者、主、王」などの意味ももつ。おそらくは、それを自由になしうる、どうにでもする能力があるからこそ主人の意味になっていったのだろうし、自在天もまたこの世の主人というような意味があったのではないかと思う。

 私としては、avalokita-Izvara を「観照された対象の主人」すなわち観照主体(観照般若にあたる)という意味にとりたい。主体であるからには、その対象の縛られずに自由に見直すことができる。その意味では観自在は「(対象を)自在に観る」という意味にもとれる。凡夫はそれとは反対に、見られた対象に縛られた“観念の奴隷”なのである。

 したがって私見では、観自在菩薩とは「観照主体(または観念の主人)という名の菩薩」なのであり、それゆえに般若波羅蜜多を教えるのに最もふさわしい説法者であると言える。


 観自在菩薩は主に智慧の側面を表わす。それに対して、観(世)音菩薩は主に慈悲の側面を表わすとされる。最初は観世音という救済者のイメージだったのが、だんだんと認識が深化していくにつれて、空を自覚させることによって衆生を救済するというイメージに変わっていったのだろう。

 avalokita-svara という場合、「音を聞いた」ではなくて「音を観た」という意味になり、いささか奇妙な名前である。だがそこには、離れた場所から把握するというニュアンスがあったのではないかと思う。衆生の苦しみの声を遠くから見守るというようなニュアンスがあったに違いない。

 さて、これは私独自の見解なのだが、衆生というのはその人の無意識を意味している場合がある。これは独自とはいえ、たとえば道元『正法眼蔵』に「山河大地日月星辰、これ心なり。」(身心学道)とあるように、世界全体を自己(の無意識)と見なすのは突飛な見解ではない。その場合、衆生の苦しみの声とは自分の無意識からやって来る苦しみの声であり、そのような内面の声は肉体の耳では聞こえないのだから、自己の内面に耳を傾けるといっても、やはり内面を観る必要があるのではないかと思う。そして、この無意識は悪い観念にとらわれて苦しんでいるのだから、その救いは観念の消滅に求められるべきだろう。

 まあ、だいたいこれくらい伏線をはっておけば、般若心経がどのような文脈で読まれるべきなのか、大まかな道筋がほのかに見えてくるのではないかと思う。
 
 
 
 最後に、菩薩に関して簡単に解説しておきたい。

 菩薩は菩提薩埵ぽだいさったの略である。菩提は悟り、薩埵はサットヴァ(sattva)の音写で衆生または有情を意味する。菩薩は「上求菩提、下化衆生」といって、上に向かっては最高の悟りを求め、下に向かっては衆生を教化する。このようにみると菩薩は、最高の悟りを開いている仏陀と、最悪の無知(無明)と苦しみの中にいる衆生との中間にいる存在ということになる。

 だがこの中間は非常に範囲が広い。はじめて悟りを開きたいと思った一介の衆生もすでにその時点で菩薩でありうるし、観自在菩薩のようにほとんど仏陀に近いような位置にいる菩薩も存在する。そのような大菩薩は、自らの悟りを求めることに時間を割くよりは、むしろ衆生の教化することに力を注いでいるだろう。衆生を教化するとは、苦しみの中にいる衆生を少しでも悟りに近づけ、それによって少しでも衆生から苦を取り除いてやろうという慈悲の行為にほかならない。

 私は先に、衆生はその人の無意識を意味する場合があるとしたが、それだけならば菩薩は単に自分を救うだけである。私は菩薩行の基本はそこにあると考えているが、自分の無意識を観ることはほとんど不可能である。字義からいって、自分では気づかないから“無意識”というのだから、見つけられない自分の無意識を救えるはずもない。ところが、自分の無意識は他人の中に投影されて見いだされることがある。だから他人を救いつつ自分の無意識を救うのが菩薩行なのである。

 観自在菩薩もまた、客観的に存在する災厄を消滅させるのではなく、観念上に存在して人々を苦しめる災厄を消滅させる。観自在菩薩レベルになるとほとんど自分の無意識は救い終わっているはずだが、にもかかわらず自らの菩薩行の延長として他者達の心を救い続ける。


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