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2007年5月29日

般若心経解説(4)行深般若波羅蜜多時照

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 最初に、記事タイトルについて一言。「照は、照見五蘊皆空というように“照見する”という熟語ではないか」という疑問が提出されるにちがいない。しかし、サンスクリット原典を参照すると、これは熟語ではなくて、照と見の二つの動詞からなっていると見たほうがいいと思われる。この問題は最後に論ずる。

(漢文読み下し)

 深き般若波羅蜜多を行ぜし時、照せり。


(梵文和訳)

 深い般若波羅蜜多において行を行じつつ、はっきりと照らし出した。


 
 
 まずは行について解説しておきたい。

 行ずるの語根√car(チャル;サンスクリット表記法はこちらを参照)には、「動く、行く、歩む、彷徨う、徘徊する、遊歴する」などの意味がある。牛が草を食べてあちこち歩くようなイメージである。

 瞑想状態を考えてみてほしい。我々の意識は、ちょうど牛が草を食べ歩くごとくに、気になったイメージをあちこち渡り歩いてはいないだろうか。ただ牛と違うのは、瞑想では、手綱をもつ牛飼いが背後に必ずいることである。この牛飼いがいるかいないかで、瞑想か妄想かの違いが出てくる。イメージを渡り歩きつつそれを監視している自分がいてこそ「行」なのである。

 行は型にはまったものだと主張する人に対しては、そのような行イメージとの関連を述べておかねばなるまい。語根√carには、「沿ひて行く、従いて行く、遂行する、実行する、服する、従事する」という意味もあり、ここでは沿ったり従ったりする規準は何かという点に注意していただきたい。たとえば、“空の知見に従って”という「行」の筋道がありうるだろう。何事を観察するにも空の知見に従って対象を把握すれば、それだけで修行になる。まさしくこのような従う作業が「行」であると言える。

 だが、空の知見に従うというのではあまりにも漠然としている。そこでイメージする順番やそのイメージに対する意味づけなどが具体的に規定されていき、我々の知っているような型にはまった行が成立する。そういう行もダイレクトに悟りにつながっていればいいのだが、時として意味もわからず外面的に動作を模倣するだけの行に堕してしまう。そのような行のなかでは空の知見は空の思想となり、やがて本来の姿から離れていってしまう。

 「行」が本来の姿を取り戻すためには、手綱をとる牛飼いの目を回復しなければならない。心は牛のごとくに目に入った観念を気ままに取り入れつつ徘徊するが、他方で、「この観念は取り入れて良いものか悪いものか」「どの程度なら取り入れても良いのか」などを大局的にみて判断する牛飼いの目が必要である。しかも、牛と下手に争わないで次第に馴らしていく必要もある。最初からきちんと牛飼いに従う牛などいない。仏教における「行」もまた同じである。
 
 
 
 牛飼いの目に相当するのが般若波羅蜜多である。「般若波羅蜜多において」とは、行が般若波羅蜜多の智慧を規準にして行ぜられることにほかならない。

 伝統的な解釈によれば、浅い般若波羅蜜多は人空を証するもので、深い般若波羅蜜多は法空を証するものである。人空とは、人間はその構成要素(五蘊)が縁によって集まったものだからそこに実体はないが、その構成要素は実体として存在する、という認識である。法空とは、その構成要素さえも実体としては存在しないという認識である。人空は小乗仏教の教えで、法空は大乗仏教の教えだとされる。般若心経はもちろん法空を教えている。

 般若波羅蜜多それ自身には深浅はないのだろう。しかし、般若波羅蜜多の理解には深浅がある。上記のごとく人空にのみ留まるのは浅い理解と思われる。だが、深く理解するためには深い「行」が同時に必要である。

 サンスクリット原典では、「(行を)行じつつ」と現在分詞になっている。「行じつつ照らす」すなわち「体験しつつ自覚する」という同時進行が重要である。あらかじめ考えておいて体験に概念を当てはめるのではない。あとで体験を反省するのでもない。観念的な知から体験的な知へと向かうのが「行」の深化だと言えよう。

 「行」とは、概念で思考することではない。直感や直観で心を働かせて進んでいく精神活動である。「これは何々であるから、何々をしよう」といって行動するのではない。「こんな感じだから、こんな感じにやろう」という言語を越えた微細な心に即した活動である。行ずる心が微細になればなるほど、それを照らす般若波羅蜜多もその深みを現わす。そして、その深みまで照らす智慧をもって再び観察を続けるのが行である。
 
 
 
 さて、このあたりで照と見を分ける理由を説明していこう。

 「(五蘊を空と)照見した」と熟語にすると、サンスクリット原典の vyavalokayati sma が抜けてしまうことになる。そこで、ほぼ「照」の意味に相当するこの句に振り分けることで、サンスクリット原典の意味に少しでも近づけようと思うのである。

 smaは、現在形と共に用いて過去を表わす語である。

 vyavalokayatiは、vi+ava+√lok+ayati と分解できる。ava+√lok はすでに観自在菩薩の語義解釈で解説したように、「離れて見る」の意味だが、vi-がつくと「区別して」というニュアンスが加わる。分別というと仏教では悪い意味になるのだが、ここでは「明瞭に区別してはっきりと分かる」というような良い意味に捉えるとよいだろう。

 -ayatiは使役形を作る活用である。そうすると、「はっきりと見させる」というような意味になると考えられる。辞書に出てくる訳語にはその使役形のニュアンスはないのだが、√lok には shine の意味があるから、おそらくこれは「輝かせる=見えるようにさせる」という連想で使役の意味が次第に希薄になったのだろうと思われる。

 この文脈では、「般若波羅蜜多に照らさせる(見えるようにさせる)」という意味が最も当てはまるように思われる。観自在菩薩自身は照らすことはできないのかもしれないが、般若波羅蜜多に照らさせることで、すなわち般若波羅蜜多に“照らして”(英語で表現すれば“in the light of prajJApAramitA”か?)物事の実相を照らし出したのだろう。

 同じ行を行なっていても、闇(無明)のなかで行なっているのと光(明)のなかで行なっているのとでは、結果が全然違う。無明のなかで瞑想を行なっていても、それは単なる妄想に終わる。しかし智慧の光のなかで瞑想を行なっていると、自らの観念の流れが見渡せて、その全体が「これってバカじゃないの?」と見抜けるようになる。無明は癡(愚かさ)とも呼ばれるが、まさしくその愚かさを発見できるのが智慧の光の中なのである。
 
 
 自分の目と智慧の光が交わったところで、何らかの超越的な理解が生じる。そして、その見られた内容は・・・・・次回に論じる。
 
 
 


 
 
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