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2007年6月16日

般若心経解説(5)見五蘊皆空

~ シリーズ最初からよむ人はこちら ~ 


(漢文読み下し)
 五うんみな空と見たり

(梵文和訳)
 五蘊(が存在し)、そして、それらを自性じしょう空であると見た。


 
 五蘊とは、人間を作り上げている身心の構成要素であり、具体的には色(肉体)、受(感受性)、想(イマジネーション)、行(動機)、識(認識)の五つから成る。括弧内の現代語訳はおそらく一般の解説書とは微妙に違うと思うが、五蘊の各々の意味に関しては後の回で述べることとする。今回は、これで大まかに人間存在の身心全体が代表できると思えればそれでよいとしよう。

 梵文の場合、最初に五蘊が主格で提示され、その次にそれらを自性空(スヴァバーヴァ・シューニャ,svabhAva-zUnya;サンスクリット表記法はこちらを参照)であると特性描写している。見たものは二種類、すなわち五蘊というさまざまな存在と、それらの本性である。

 自性(svabhAva)とは、「それ自身で存在していること」すなわち「実体性」を意味する。そして、自性空であるとは、自性が欠如していること(無自性)、すなわち実体性がないことを意味している。玄奘訳には自性の語がない。だから、五蘊のあらゆる側面が存在しないかのようにも読めてしまう。チベット仏教では、このあたりの哲学的議論がかなり精緻に行なわれているが、日本では、かりに空の議論がなされても論理的厳密さからはほど遠く、むしろ感性に頼る傾向にある。論理から出発すべきか感性から出発すべきかは一長一短なのだろうが、いずれにせよ両方の側面を併せ持つようになるべきである。

 観自在菩薩は、「人間存在のどの部分もそれ自身の力で存在しているわけではなく、さまざまな条件(すなわち縁)によって生起しているものだ。」と見抜いたのである。したがって、自性空とは縁起を意味する言葉だといってよい。換言すれば、観自在菩薩は人間存在が縁によって生滅する無常の存在であることを見抜いたのである。

 空だから何もないのかというと、そうではない。縁によって生起しているかぎり、それには効果的な作用(功用 く ゆう)がある。いくら空だといっても、石が当たれば痛いものは痛いし、唐辛子を食べればきっと辛いだろう。空の認識があろうとなかろうと、現象界のはたらきそれ自体は何ら変わることがない。ただ、空の認識によって現象界の固定的な把握は弱められる。つまり、あるがままに現象界のはたらきが眼前に展開していく。したがって空とは、事物の実相すなわち真如の世界が現われていることでもある。


 この般若心経解説シリーズの前回の題名は「行深般若波羅蜜多時照」であり、今回は「見五蘊皆空」としている。般若心経を読誦する場合には「照見五蘊皆空」と発音しているはずだが、私はあえて「照らす」と「見る」を区別した。

 「見る」の原語は pazyati だが、pazya(女性形 pazyA)という形容詞には「見る」「正しい見解をもつ」という意味がある。したがって、こちらの「見」のほうは何らかのものの見方を得たという意味にとるほうがよかろう。

 さまざまな事物に自性(永遠不変の実体性)があると信じているのが凡夫である。だから逆の見解(ものの見方)を対置する。般若波羅蜜多は真如の世界をそのまま照らしだすが、それを凡夫の世界に仲介し結びつけるのがこの自性空という“見解”の働きである。「自性がない」という見解をあえて持ち出すことで、凡夫が暗黙に 前提している“事物の自性”を明るみに 出し、その迷妄の働きを抑制していく。迷妄に基づく見解は人間を苦海に落とすが、般若波羅蜜多に依る見解は人間をそこから救い出す働きをするだろう。

 観自在菩薩は、存在するものを永遠不変の実体的なものとして捉える凡夫の見方を否定して、永遠不変の実体的なものは何らこの世に存在しないという見方を提示する。そして、それに従ってこの世を無常のものと観察することによって、凡夫の認識は真如へと一歩近づくのである。
 
 
 じつは前回問題にした「照らす」の目的語がはっきりしない。かりに「五蘊(が存在し)」の部分で文を切るとすれば、「五蘊を照らしだし、それらを自性空であると見た(見解をもった)」となって非常に理解しやすいように思われるのだが、その場合はサンスクリット語の五蘊が目的格でなければならず、この解釈にも無理があることは確かである。それでもあえてこの解釈の線を貫くならば、「照らしだしたら五蘊があり、そしてそれらを自性空であると見た」と読むこともできる。

 仏教は無我を標榜する宗教だから、後でそれが自性空であると否定されるにしても、我(アートマン)を見たと軽々しく表現するわけにはいかない。そこで、「般若波羅蜜多において行を行じて照らしだしたら、そこにはアートマンと同一視されがちな五蘊があって、それらの自性が欠如していると見た。」という表現になる。

 このやり方では現象世界から完全に超越しているアートマンの存在を直接に否定することはできない。しかし、いかなる場合も現象世界に入ってこない隔絶されたアートマンに何の意味があるだろうか。少なくとも五蘊という私の現象世界ではアートマンと同一視できるような常住不変のものは何もないことが、ここで明らかになったのである。

 では、超越世界にはアートマンは存在するのか。このような疑問は、空の哲学を徹底してマスターするか完全に悟りを開いてから考えればいいことである。一知半解の理論で議論したところで どうせ戯論を積み重ねるだけだろう。般若心経は、現象世界を舞台としてそのような戯論の世界から離れて悟りと安楽(菩提と涅槃)の世界へ向かう助け船を出しているのである。
 
 
 


 
 
 
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