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2007年6月 4日

慚愧は仏教語です

 「去る者は日々に疎し」で、政界では早くも年金問題で大騒ぎしていて、松岡大臣の自殺は完全に過去の出来事になってしまったようである。さて、そのことに関して安倍首相は「慚愧に堪えない」と発言したという。
 
安倍政権動揺=首相、任命責任認める-深刻な影響・松岡農水相自殺
5月28日19時33分配信 時事通信

 東京都港区赤坂の衆院議員宿舎で自殺を図った松岡利勝農水相(62)は28日午後2時、搬送先の慶応大学病院で死亡が確認された。緑資源機構の官製談合事件などをめぐり、疑惑の渦中にあった現職閣僚の自殺に、与野党は大きな衝撃を受けている。安倍晋三首相は「任命権者だから、閣僚の取った行動に責任を感じている」と記者団に初めて任命責任を認めた。野党側は真相の解明を求めるとともに、農水相を一貫して擁護してきた首相の政治責任を追及する方針だ。参院選を控えて安倍政権は動揺、苦境に立たされた。
 首相は、松岡農水相の自殺について「本当に残念だ。ざんきに堪えない思いだ」と首相官邸で記者団に語った。さらに「有能な農水相だっただけに内閣、政権への影響は大きい」と述べ、深刻な影響は避けられないとの認識を示した。 

最終更新:5月29日1時3分


 
首相コメント「慚愧に堪えず」、「残念だ」の間違いか
 安倍首相が松岡農相の自殺について、「慚愧(ざんき)に堪えない」と述べたことについて、「『残念だ』という意味で使ったのであれば、間違っている」という指摘が出ている。

 「慚愧」は「恥じ入ること」(広辞苑)という意味だからだ。首相周辺は「最近は反省の意味でも使われており、問題はない」としている。

(2007年5月28日23時46分 読売新聞)


 
 安倍首相のこの発言は、いまひとつ分からない。松岡氏が農水相を続けていることが死ぬほど苦しかったという心理状況を慮れなかったことについて「慚愧に堪えない」のならわかるのだが。
 
ただ、「慙愧に堪えない」by安倍総理 のコメント欄に
象牙 Says:
5月 29th, 2007 at 7:28:15
有名作家の方が違和感を表明されて始まったこの議論ですが、経営者が、社内で不祥事が起き、担当者が自殺してしまった時に、「担当者が責任を感じ、そのような事態に至らしめてしまって申し訳ない、外部からの批判からあなたを守りきれなかった、そんな非力な私を、本当に自分自身恥ずかしく思う、申し訳ない」という文脈で使うような気がします。

安倍総理の心境としては、一連のバッシング(批判)に松岡大臣が晒されなければ、このような事態になることはなく(なかったでしょう)、更迭するか否かの判断も含めて、もっと別のやり方をすれば松岡大臣があのような最期を迎えることはなかったのではないか、身内である松岡大臣を守りきれず、結果として自殺者を出してしまい申し訳ない、非力な自分を歯がゆく思う、という意味で、謝罪会見などではごく普通に用いられるような気がします。

とあるが、私もそんなところだろうとは思っている。
  
  
    
 前振りが長くなってしまったが、慚愧は仏教語である。ネットでも仏教語として多少は解説されているようだが、こちらでもまとめておこう。詳しい議論をすると飽きられてしまいそうなので、それはSNS「仏教談話ネットワーク」ですることにして、こちらでは一般向けに、できるだけ簡単に解説したい。
  
  
 まず、慚愧(または慙愧とも書く)は、慚と愧という二つの言葉からなっている。その正反対の心の無慚と無愧から説明していくとわかりやすいだろう。
  
 無慚と無愧は煩悩の一種で、常に悪い心とともに働く。そのうち無慚とは、自らと仏法とを顧みずに賢善を軽んじ拒む心であり、自らの良心に恥じる心を阻害して、悪行を生長させる働きをする。また、無愧とは、世間の目を顧みずに暴悪を崇め重んずる心であり、世間からの非難を慮る心を阻害して、悪行を生長させる働きをする。
 
 それに反して慚とは、自らと仏法との力に依って賢善を崇め重んずる心であり、無慚を押さえ込むことができ、悪行を止める働きをする。愧とは、世間の抑止力に依って暴悪を軽んじ拒む心であり、無愧を押さえ込むことができ、悪行を止める働きをする。
(以上は『成唯識論』巻第六からの意訳。)

 つまり無慚と無愧は、善を軽んじ悪を為しても平然としている恥知らずの心を意味する。ところが人間には、自らの良心に恥じたり、世間の非難を恐れたりして悪行を押さえ込む善い心もある。「慚愧に堪えない」というのは、悪行とまではいかなくとも自らの不徳を激しく恥じるという意味になるのではなかろうか。

 涅槃経には、「無慚愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす。」という激しい言葉もあるが、まあ、慚愧の心が皆無ならば犬畜生にも劣るような行為もするだろう。反対に、「慚愧に堪えない」人はそれだけ多く慚愧の心をもっているのだろうから、多少の悪事をしてもまあ善人だとも言える。しかし世間では、人並み以下の慚愧の心で悪行を大々的に為し、それが白日(はくじつ)のもとに照らされて初めて慚愧の念をもつ人も多いように思われる。「バレなきゃいい」もまた、無慚・無愧の心であろう。
  
  
 瑜伽師地論には、以下のような一節がある。(世俗の文脈に置き換えたので原意と多少ズレているかもしれない。)
  

無慙無愧の心を起こしているのだと、五つの様相から知るべきである。
  
一、汚れた行為をしているのに恥じることなく、
二、善い行為をしていないのに恥じることなく、
三、不法に受け取っているのに恥じることなく、
四、悪い友に親しみ近づいているのに恥じることなく、
五、なすべきことをがんばって成し遂げることができないのに恥じることなし。
  
この五つと反対の様相で、慙愧の心が起こっていると知るべきである。

  
  
   
 最後に、慚愧に関してなかなかよいことを書いているサイトを紹介し、引用する。
  
  
維摩経(ゆいまきょう)から考える
 「慚」は独り自ら省みて恥じるという意味であり、「愧」は他人の眼、世間の眼を気にして恥じるという意味である。
 「慚」とは、自分のこれまでの生きざまに対する絶望から生まれてくる。エゴを意味する自我が崩壊する過程に生まれてくる心の底からの痛恨である。「慚」は、全く呼吸ができないというほどの痛恨をともなうことがあり、ときに自殺することさえあるといわれるほど激しい魂の慟哭である。
 宗教心は、自分自身の在り様が問題となるとき、初めて作動し意識の俎上に登ってくる。魂の堅琴に触れてくる。「慚」は宗教心の生まれる源泉である。「慚」はルース・ベネディクト女史のいう「罪」という表現に十分拮抗しうる魂の営みである。
 ところで道徳(モラル)は、自分の在り様から生まれるが、自分の在り様そのものを問題としない。良心は自分が人間であるという「存在性から」生まれる。しかし、それだけだ。これに対して慚は、自分が人間であるという「存在そのもの」を問う全人的な営みに根を持つ。
 要するに「慚」は、自らの地獄を体験する中から、仏教的にいえば「空」を体験する中から生まれてくるのである。
 世評とか世間の眼など、まったく入る余地のないのが「慚」である。

  
反省と懺悔(2005/01)
慚愧というのは、仏さまの眼(まなこ)を通して徹底的に自分が見抜かれていく世界である。仏さまによって見通された掛け値なしの自分に本当に肯けた世界を懺悔(さんげ)という。その懺悔から生まれる世界が慚愧である。
 涅槃経には「慚愧あるが故に云々」という標記の言葉に先立って、人間が本当に救われていく唯一の道として慚愧ということが説かれ、そして「無慚愧は人(にん)とせず、名付けて畜生とす」という言葉が置かれている。つまり、人間が慚愧の心=羞じるという心=を無くしてしまったら、もうそれは人間ではないということだ。
 言い換えれば、慚愧の心を失って仏さまから人間失格を宣言されると、戸籍上の親子兄弟として生活を共にしていても、それは心の繋がりを忘れてしまった形だけのものだということだ。

  
  
  
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