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2007年7月14日

般若心経解説(7)舎利子と空性の世界

 

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今回は、舎利子の前後の解説であり、玄奘訳(649年)では省略されているサンスクリット原文の内容を論ずる。もっとも、法月訳(738年)ではこの部分が「色性是空、空性是色」と訳出されており、また、智慧輪訳(847-859年)では「色空、空性是色」と訳出されている。
 

(梵文和訳)
 
 ここでは、シャーリプトラよ、色は空性であり、空性がまさしく色である。

 
 
 まずは後半部分から解説していこう。
 
 空性(シューニャター,zUnyatA;サンスクリット表記法はこちらを参照)は、文字通りには「空であること(もの)」という意味である。より明確には「自性空であること(もの)」を意味していると言える。この自性空については、「般若心経解説(5)見五蘊皆空」のところで説明した。漢訳するとこのシューニャター(空性)が空とのみ訳されてしまうので紛らわしい。五蘊皆空の場合は自性空(スヴァバーヴァ・シューニャ,svabhAva-zUnya)というサンスクリット語が空と訳されているが、それ以外の空はすべてシューニャターの訳である。
 
 しきは、形や色のあるもの、すなわち物質的存在を意味する。物質的存在は、それにつき当たると抵抗(ぶつかり)がある何かであり、そこに何らかの存在性が感じられる。その抵抗に遭遇して、我々はそこに“何かがある”と思うわけである。しかし、それが同時に「自性を欠く」という特性をもっている。いわば、そこには我々が想像するような“確固たるものがない”ということにもなる。
 
 かくして「色は空性であり、空性がまさしく色である。」という経文は、「“何かがある”状態は、“確固たるものがない”という性質をもっている。“確固たるものがない”という性質が、“何かがある”状態を生じさせている。」というような意味に解釈できるだろう。
 
 色(物質的存在)というと、あれこれの具体的な事物を指しているように思える。しかし実際には、そのような具体的な事物に共通してその根源にある“存在性”、ないしそれに触れたときに我々の心中に生じる“存在感”を意味していると考えたほうがよい。そのような存在感を介して知覚された諸事物の存在性――存在状態といったほうが正確かもしれない――には、永遠普遍の実体性は存在しないのである。
 
 「色は空性である。空性がまさしく色である。」という経文は、そのような観点から読まないと理解が困難である。もしも日常的な観点から見るならば、「だって、いくら空性と言ったって、あれやこれやが現に存在しているじゃないか!」ということになるからである。だが般若心経においては、“あれやこれや”が現に存在しているかどうかではなく、「“存在している”と感覚されたそのものには自性がない」というところから始めなければならない。この存在感覚の中に永遠普遍の実体という意味を詰め込むから、“あれやこれや”が実体感を帯びて我々の意識上に現われてくるのである。この存在感覚の中から永遠普遍の実体という観念を完全に消滅させたとき、“あれやこれや”が真実の姿をもって現われてくるだろう。
 
 
 これはまさしく観自在菩薩が般若波羅蜜多において認識した世界である。そして、観自在菩薩はこれからまさにそれを舎利子に説こうとしている。
 
 舎利子(または舎利弗しゃ り ほつは、パーリ語ではサーリプッタ、サンスクリット語でシャーリプトラと呼ばれ、ゴータマ仏陀の声聞のうち智慧第一と称された弟子である。
 
 いわゆる声聞たちは、「人間は五蘊から構成されたものだからそれ自体として存立しているものではなく(諸法無我)、やがては五蘊に解体されていく(諸行無常)。」と認識していた。これはのちの仏教用語では析空観と呼ばれる。それに対して般若心経をはじめとする大乗仏教の菩薩たちの空観は体空観と呼ばれ、彼らは「五蘊そのものもまた空だ」と認識している。
 
 声聞たちはゴータマ仏陀の教えの通りにしか理解せず、「五蘊もまたそれ自体として存立しているわけではない」という認識にまで至ることはなかった。しかし、大乗仏教の空観では、「自性がない」という見方をあらゆるものに適用していく。それゆえにあらゆる概念はその存立基盤を失い、空観のなかでは無とされるのである。
 
 
 シャーリプトラは、声聞の限界ゆえに概念的世界に住んでいる。それに対して観自在菩薩は、深い般若波羅蜜多において行をした結果、実相の世界を見て、五蘊皆空という見解をもって実相の世界と概念的世界を橋渡ししようとする。そこで観自在菩薩は「ここでは、シャーリプトラよ」と呼びかけるのである。
 
 「ここでは」という意味のサンスクリット語のイハ(iha)は、解説書では「この世において」を指すと見なされている。確かにこの世でも真実には諸法無我である。しかし、仏教的に「この世」という場合には煩悩や観念に満たされた世界を暗示するから、むしろ「ここでは」を「真実においては」の意味にとり、「色は空性であり・・・」以下の観自在菩薩の教えにつなげていきたい。そうすると、「ここでは」は「この般若波羅蜜多において照らしだされた世界では」の意味ではないかと思う。シャーリプトラは、いわばここで観自在菩薩の瞑想世界の中に引き込まれてしまったのである。
 
 このような理解は、決して経典を逸脱したものではないだろう。チベット仏教で使われている大本の般若心経では、中心人物として仏陀・観自在菩薩・舎利子の三人が登場する。まずは仏陀が「深い悟りという名の三昧(gambIra-avasaMbodhaM nAma samAdhi)」に入る。それから観自在菩薩が深い般若波羅蜜多において行を行じて「五蘊皆空」の見解を得る。そのあとにシャーリプトラが“仏の力によって”観自在菩薩に言葉をかけるのである。
 
 概念的世界に囚われているシャーリプトラが自らの力で空の世界を自ら見られるはずもなく、必然的に、仏陀の助力によって強制的に自らの目を開かされたと言えそうである。観自在菩薩も、仏陀が三昧に入ったために仏陀の般若波羅蜜多の光に照らされて行を成し遂げられたのかもしれない。つまり、仏陀の三昧という実相世界が根本にあって、それに触発されて観自在菩薩に五蘊皆空の見解が生じた後、仏陀がシャーリプトラを概念的世界から実相世界に引き寄せるために、両世界の仲介となる観自在菩薩の空の見解の世界に関わらせたのである。以上はおそらく私のオリジナル解釈になるのだろうが、これによって此岸と彼岸を結ぶ位置づけや、その両者を媒介するものとしての五蘊と空との表裏一体性の見解の位置づけが容易にできるようになるのではないかと思う。
 
 
 
 
 

 
 
 
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