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2007年10月19日

般若心経解説(8)空性の意味とその深浅

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 だいぶ間があいてしまったが、すでに涼しくなって私の頭の回転も正常に戻っているので、解説を再開したい。今回は、サンスクリット原文にしかない「色は空性であり、空性こそが色である」の部分を補足説明する。

 空性(シューニャター,zUnyatA;サンスクリット表記法はこちらを参照)には「自性空」と「縁起」との二つの意味がある。

 空性が自性空を意味することに関しては、般若心経の経文をよく見れば、確認できる。サンスクリット語で「五蘊の自性が空である」という文と、「色は空性である」(受想行識もまたそのようである)という文が同一の意味にならなければならないのだから、当然のことながら「自性が空である=空性」という結論になるだろう。

 空性が縁起を意味することに関しては、龍樹が「縁起(プラティーティヤサムウットパーダpratItyasamutpAda)なるもの、それを空性(zUnyatA)と呼ぶ。」(『中論』24章第18偈)と述べていることから明らかだろう。

 龍樹は「縁起は空性である」と言い、「空性は縁起である」とは言っていない。これは、縁起よりも空性のほうが広い範囲を指す言葉であることを暗示する。そこで、「縁起や自性空は空性である(=空性とは、縁起と自性空である)」という考え方も成立するのである。だが実際には、自性空と縁起は同じものの異なる側面である。

 自性とは、「他から独立してそれ自体で存在する実体」の意味である。では、「自性が空である」とはいかなる意味か。自性の定義からの論理的帰結では「他から独立しておらず、それ自身のみでは存在することのない状態」を指すことになろう。もう少し具体的に言えば、「さまざまな因縁(原因と条件)によってはじめて存在できる相互依存の状態」という意味になろう。
 
 般若心経で「色は空性である」という場合には“自性空”の意味にとるのが普通だが、「空性こそが色である」という場合の“空性”は、自性空よりも一歩世俗レベルに近づいた解釈としての“縁起”だと考えたほうがわかりやすい。すなわち、「空性こそが色である」という経文を「さまざまな因縁が和合して生じてきたもの、それが色である。」という意味にとれば、すんなりと読めるのである。
 
 
 さて、空性の世界は、世俗の認識とはかけ離れている。だが、両者には真理という意味で接点もある。龍樹は、「二つの真理に依拠いきょして、仏たちの説法がある。世間世俗の真理と、絶対最高の真理とである。」(『中論』24:8)といい、まずは世俗諦と勝義諦との区別を提示する。そして、「言語表現 (言説)によらなければ、最高の真理は示されない。最高の真理に達せずには、涅槃の悟りは得られない。(『中論』24:10)といい、両者の密接な関係を提示する。
 
 世俗では迷いの言説が展開される場合もあるが、悟りの言説が展開される場合もある。後者を世俗諦という。そして、それはさまざまなレベルで空性を暗示している。
 
 たとえば、諸行無常・諸法無我という教えは、世俗レベルでの最も平易でわかりやすい空性の真理だろう。時が経つにつれて物事はどんどん変化していく。何一つとして昔のまま留まることはない。かくしてこの世には自性(恒常不変の実体)なんて存在しないということが、ごくごく一般的な世俗の意識においても十分に把握される。これは、初期仏教の段階での世俗諦である。
 
 また、少し分析的な態度をとれば、物を構成要素に分解する観点を導入して、物がさまざまな要素によって構成された結果として生じているということを認識できるようになる。すなわち、すべての物が縁起的な存在であるということが少し哲学的な世俗の意識においても十分に把握されるようになる。これは、アビダルマ仏教の段階での世俗諦である。
 
 さらにもっと徹底的に厳密な分析を加えていくと、構成要素というものさえも縁起によって成立しているものだということが認識され、結局は、この世のあらゆるものは、いや空性や涅槃や菩提といった聖なるものも、すべてが自性をもたないものだと結論づけられるようになる。これは、中観派哲学の段階での世俗諦である。
 
 以上のごとく世俗諦はあくまでも言説によって提示される真理であり、一方、勝義諦は言説によっては提示できない直観的な認識に基づく真理である。同じことを伝えようとしていても、説法相手の言説のレベルに合わせるのか、純粋にそれ自身を指し示すのかで、世俗諦と勝義諦の違いが出てくる。
 
 「色は空である」という場合、最終的には直観的な認識に基づく勝義諦を意味する。これは言葉を超えた真実の世界であり、それを直接に伝えることはできない。しかし、説法相手の言説レベルに合わせてそれを少しでも真実に近い形で伝えようとしたのが、仏教の経典や論書である。語られたものそれ自体は真理そのものではないが、そこに真理が透けて見える。そのようにして真理の世界と世俗の世界を結びつけないと、真理の世界は永遠に知られないのである。だから、仏陀や聖者たちは、さまざまな言葉を駆使して世俗の中に聖なる真理を導入しようとする。
 
 「色は空性であり、空性こそが色である」という経文は、まさしくいちど高みに昇って再び下りてくることを意味するが、下りてきた時には物事は達観され、これまでの事物が以前とは違ったふうに捉えられている。実体的に見えていた事物が、原因と条件によって生起して当面は存在し続けている幻のごとき現象としてのみ把握されるのである。
 
 最初の「色は空性であり」の色は、世俗において実体視された色である。それが「自性がない」という表現で徹底的に否定される。そして、自性がなくても縁起として現象している“何か”として直観的に把握されたあと、そのような“何か”が色として世俗の世界に現われているのだと認識される。このような段階が「空性こそが色である」の意味である。その段階では、「ものには自性がある」という認識のけがれと、それに伴って生ずる煩悩の汚れとが聖者から拭い去られ、彼は他の凡夫と同じ世界にいながらも浄らかな世界に住んでいることになる。
 
 
 
 以上のことが完全に理解できれば、般若心経の核心部分はほぼ完全に理解されたことになる。しかしながら、悲しいかな体験のない凡夫は多くの言葉を通して解説されなければ勝義諦に近づくことはできない。また、禅定と智慧を修習しなければ、勝義諦に達することはできない。そこで経典においてその核心部分が語られ、さまざまな注釈によってその核心部分の解説がなされている。
 
 
  


 
 
 
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