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2007年11月 4日

空性の喩え(1)修行的文脈

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 これから数回にわたり、空性に関するイメージを作り上げるために喩えをいくつか提示してみたい。これは、般若心経解説の番外篇である。


 空性は、単なる哲学概念ではない。むしろ仏道修行全体のなかで適切に位置づけられる必要があろう。空性という概念が、どのような文脈でその存在意義を発揮するのか、よく確認しておくべきである。

 いったい我々は、具体的に存在している何かを把握するのは比較的容易にできるが、何かが存在しないことを常に把握しているのは困難である。たとえば机の上にボールペンがあるなら、それは一目瞭然だろう。しかし、机の上にボールペン無いことは、それを求めて机の上を探している時にのみ自覚される。そこに無いものに関しては、探し求めない場合には決して念頭に上ってこない。だから、「机の上にタイヤがない」とか「机の上にカエルがいない」などのことを普段から意識している人は皆無に等しいのである。探し求めているからこそ、「そこに無い」ことがわかる。まさしくこの“探し求めている態度”が背後にあることに注意しながら、空性に関する理解がなされるべきだろう。

 唯識派の“空”解釈には、以下のようなものがある。

「あるもの(B)があるもの(A)において無いとき、それ(A)はそれ(B)について空である。」(yad yatra nasti tat tena zUnyam;サンスクリット表記法はこちらを参照)

 Aに色、Bに自性を入れると般若心経の文脈にそのまま当てはまる。すなわち、「自性が色において無いとき、色は自性について空である」となる。ときには「自性について」が省略されて、単に「色は空である」と表現されることもある。また般若心経では、「自性について空であること」を空性という抽象名詞にして、「色は空性である」と表現している。ここで、自性は探し求められている対象であり、色は探し求めている場所に相当する。


 ボールペンを激しく求めてそれに執着する人はほとんどいないと思われるので、別の喩えを用いて空性を解説してみたい。それは、

徳利とっくりに酒がない
である。(笑)

 まず、徳利が色に、酒が自性に対応することは一目瞭然だろう。そして、その場合には「徳利が空(から)である」ともいう。そもそも「徳利に酒がない」と思うのは、そこに酒を求めて徳利を傾けた人のみである。食器棚にしまわれている徳利や、食器売り場に陳列されている徳利をみて「徳利に酒がない」と思う人は、よほどのアルコール依存症である。

 徳利は、もともとは酒を入れる単なる容器にすぎないのであって、酒の存在を意味するものではない。しかし、とくに「お銚子一本」と表現したときには、徳利という容器だけをいうのではなくて、その中に一杯に入った酒を意味している。容器で中身を表示しているわけである。そのように徳利は、そこに酒の存在を“暗示”している。

 さて、徳利には酒がないかもしれない。しかし、酔っぱらっている時には、あるいはアルコール依存症の人々は慢性的に、空(から)の徳利に幻を見ている。そのやさしさと温もり!(笑) 酒に強い人ならば普段より反応が少々鈍るくらいなのだろうが、酒癖の悪い人間になると、飲酒によってありとあらゆる判断に倒錯が起こってくる。有るものを無いと言い、たいして美しくないものを美しいと思う。これ以上のことは詳しく解説していく必要はあるまい。酒が身体に入ると、代わりに身体から貪・瞋・痴が漏れ出てくる。


 ここまで書けば、「色に自性がない」という経文の含意が十分に予想できるだろう。

 自性というのは酒のように判断を狂わせるものである。もしも色に自性があるならば、それは恒常不変であることを意味するが、常に変化していくこの世にあって実際にはそれは間違いである。ところが我々は色に向かって、実際にはそこには存在しない恒常不変の自性を求めがちである。ちょうど空の徳利に酒を求めるように。求めるからこそ最初の顛倒が起こってくる。永遠に死なない肉体、永遠に消え失せない地位や名誉や財産、永遠に衰えない美貌・・・。実際のものには、そのような性質はあるはずもないのだが、そこにそれらが存在するかのように思ってしまう。そして、そんなものを自分の前提として想定してしまうから、そのあとの判断が完全に狂ってくる。ちょうどアルコール依存症の人々が酒のイメージに接しただけで、幻想が自動的に展開していくように。

 凡夫は、自性という酒を色という徳利に自分自身で入れて、そこから間断なく酒を呑み続けているようなものである。我々が何らかの対象に接する時には必ずそこに確固たる何かを感じて、そのイメージを自分の心の中にしっかり溜め込んでいくではないか。さらにまた、自性という酒は徳利だけにつがれるのではない。あっちのコップにこっちの茶碗、むこうから大きな杯までもちだして呑んでいる。「色には自性がある、受にも自性がある、想にも自性がある、行にも自性がある、識にも自性がある……。」 ありとあらゆるものに自性という酒を注いでは呑み、自ら酔っているのである。

 ところが般若心経では、「色に自性はない」と宣言する。色どころか、「あれにもこれにも自性はない」と無い無い尽くしの宣言をする。ちょうどこの徳利にもあの徳利にも酒は残っていないと宣言するようなものである。

 だが、そう言われたところで、酔いから醒めるまでは幻想はその人につきまとう。やがて酔いが醒めてくるまで、こっちの徳利をひっくり返し、あっちの徳利を逆さまにして、本当に無いのだなあと確認しつつ時間を過ごす。それでもまだ、どこかに酒が残っているかもしれないと、徳利をあちこち探し回るようなこともするかもしれない。心の中の徳利には、まだなみなみと酒が入っていたりするのだから。(笑) しかし、そんな幻想も完全に消え去ったとき、徳利が単なる容器として見えるようになる。

 ちょうどこのように、さまざまなものを観察してそこに恒常不変の実体が存在しないことを確認しながら、一切の存在に自性は無いということを心の底から自覚しつつ、あらゆる幻想から完全に離れてしまった状態が仏陀の悟りである。

 このような喩えによって般若心経の言わんとしていることが明確になり、読者にとって菩提と涅槃へと向かう道が開けることを祈っている。くれぐれもこの喩えを縁として、酒場への道を開かないように。(笑)



 
 
 
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