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2007年12月14日

空性の喩え(2)自性空の側面から

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 前回は、「徳利に酒がない」という喩えを使って、「求められている対象がそこには無い」という文脈で色即是空を理解すべきことを説いた。今回からは、その求められている対象としての“自性”の意義について、再び喩えをつかって説明してみたい。その喩えとは、

財布にカネがない。
である。(笑)

 本来ならば「カネに自性がない」が世の実相なのだが、今回は自性というものが人々にとってどのような意義をもつのかをイメージしやすくするために、敢えて「財布にカネがない」という喩えを出発点にした。だが、我々が注目すべきは、むしろ「財布にカネがある」という心理である。そのカネが空(むな)しく感じられるようならば、少しは空の思想がわかったことになる。

 ここで「財布に」とは、“自分の所に”という所属の意味を表わす。また「カネ」という言葉も、ここでは何らかの一定金額のカネを指していると考えるとよかろう。というのは、「カネがない」という場合には、ある一定金額をあらかじめ想定して、それに見合う金銭を自分が所有していないということを意味するからである。端的に“無い”ものは考えることもできない。何らかの対象イメージをあらかじめ持って、それに照らして現実にはその対象が“無い”(=不在である)と認識するのが、我々の知の実態なのである。

 仏教の文脈でいえば、それはそのまま「わがもの(我所)には実体がない」という教えになる。無我という言葉は一般にもよく知られているのだろうが、仏教では我のみならず、わがものもまた(実体としては)“無い”とされている。わがものとは、具体的には五蘊すなわち人間の心身である。そして五蘊皆空とは、わが心身に実体はない(恒常不変ではない)という意味である。もう少し焦点を絞って色即是空について述べるならば、「わが肉体はいつまでもこのような形を保ってはいない」という意味になるだろう。今回の喩えにおける“想定された一定金額”が、今の自分の肉体の姿ないしは執着されている過去の自分の肉体の姿に相当する。そして、このようなイメージ上の自分の肉体の姿は、現実の肉体の姿(実相)とはかけ離れている場合がある。

 「いつまでもあると思うな親とカネ」という言葉もあるが、我々の一般的な思いとしては、これらは“いつまでも変わらずに有る”と信じている。ところが、人間は突然死ぬものだし、全財産を一夜にして失うという場合もある。あらゆるものは、そのようなはかない一面をもっている。これが空性である。「私には生命がある」という場合、我々は明日も明後日も絶対に生きていると信じているが、実際にはそんな永遠の生命は“無い”。

 不生不滅などの経文の意味を理解するためには、このようなイメージと現実との関係性についてよく知っておく必要がある。すなわち、「恒常不変なものがあるというイメージで現実を見ようとすると、どのような矛盾が生じて来るのか。そのようなイメージはどのような意味で“無く”、どのような意味で“有る”のか。」――これらをきちんと把握しておく必要がある。


 それでは、喩えを使ってイメージを広げてみよう。

 「財布にカネがある」は、「これで物が買える」という意味である。だから、「ある」と思った瞬間にそのカネは使われる方向に動き始めているのであり、実際にもすぐに使い始めてしまうことが多いだろう。いつまでも元のままの金額で「カネがある」ことはほとんどない。「(ある一定金額の)カネがある」というイメージは、それが生じた瞬間から既に崩れていく運命にある。

 たとえ財布のカネを全く使わなかったとしても、実質的にはその価値は目減りしていく。同じ金額を100年後までもち続けていることを想像してみるとよい。100年前と同じものはとても買えないだろう。現実問題として、どう頑張ってみても当初イメージしていた「カネ」は恒常不変ではありえないのである。

 財布のカネはどんどん無くなっていく。使えば無くなるのは当たり前なのだが、ときどき財布の中身を確認して、少なくなったと言ってがっかりする。それは我々が、そのカネがずっとそのまま減少しないことを期待しているからである。現実がその期待に反するからこそ、がっかりしたり悲しくなったりする。このようにイメージは、現実ではなく我々の期待を映し出している場合もある。我々の人生は、自らの期待に突き動かされたイメージによって主導され、それを現実だと錯覚している場合も多いのである。

 このように自性も、我々の期待である一面がある。自性があるというのは、単なる誤認や虚妄ではない。その事物に対する我々の期待が“自性”なる恒常不変の実体を作り出し、我々はそれに執着することになる。恒常不変の実体なんて存在しないことは、多くの人は百も承知だろう。にもかかわらず仏教において自性が重要な意味を持ってくるのは、それが我々の心(知性というよりむしろ感情)の産物だからである。さらに言えば、特定の対象について我々がほとんど無意識的にもっている「永遠に変わらずにあってくれれば……」という期待こそが、自性の正体の一部を構成しており、それがまた煩悩を生じさせる原因となるからである。

 もしも期待された恒常不変のイメージが正しいとすると、それは現実のものとして機能しなくなる。たとえば財布に一万円札があったとする。これがカネとして機能するためには、それが購入物と釣り銭とに交換されなければならない。所有者の観点からいえば、一万円札が購入物と釣り銭に“変化する”のである。一万円札が自らを否定(=購入物および釣り銭との等価交換)しなければ、ものを買うことができない、すなわちカネとしての役割を果たさない。自らが一度ゼロ(すなわち空)になってこそ、現実は次の段階へ進むことができるのである。

 これがもし金剛不壊の一万円札として財布の中で頑張っていたらどうなるか。(笑) それはカネとしての機能を果たさないだろう。ちょうど記念コインのように、持っているというだけでカネとしては何の役にも立たないのである。せいぜいのところ“他人に見せびらかす”ためには役立つかもしれないが。そして、恒常不変と見なされた我々の五蘊(すなわち心身)もまた、他人に見せびらかすためのみに役立っているのかもしれない。

 だが、ここで「財布にカネがない」と喩えていても、それは「財布にカネが皆無だ」という意味なのではない。むしろ、「現実には思っていたようなカネがない」という状態を指すのである。財布の中に一定金額のカネがないとしても、常に財布が空(から)なのではなく、なにがしかのカネが“有る”だろう。そして、財布の中身は変動するが、その時に応じて働きをもつだろう。一切は空だから、自分が大金を持っていてもそれが永遠に続くわけではないが、あるぶんだけ様々なものが購入できる。逆に、いくら一切空を悟っても、自分の借金が無くなるわけでもない。あいかわらず借金取りがやってくるだろう。空を悟るといっても、「この状態が永遠に変わることはない」という強いイメージが跡形もなく消え去るだけなのである。


 以上のような喩えで、五蘊皆空の意味を感覚的にイメージしやすくなったのではないかと思う。しかしながらこの段階の喩えでは、「一定金額のカネはなくても、なにがしかのカネは確固たるものとして存在しているではないか」という反論も出て来るだろう。そこで次回は縁起という側面から、カネという存在そのものが心許ないものであることを論じていきたい。


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