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2007年12月31日

空性の喩え(3)縁起の側面から

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 前回は「財布にカネがない」という喩えを使って空性のイメージを広げたが、今回はその喩えをもう少し抽象的・一般的レベルにもっていこう。すなわち、

私には財産がある

という事態を考えてみたい。

 このとき我々は、「私は確固たるものを所有している」と思いがちである。ところが、いずれの財産をとってみても、そこに完全性を求めるならばだいぶ怪しくなってくる。


 いちばん怪しいのは株という財産である。たとえば、「私は○○株式会社の株を××株持っている」といって金庫に大切にしまっている人がいる。だが、株券そのものが財産的価値を持っているのではない。株券は、その財産的価値が特定の人に帰属していることの証明書みたいなものである。財産的価値を所有しているか否かは、紙よりもむしろ公式の手続きに依っているのである。公式の手続きが無効になれば、株券もただの紙切れになる。タンスの奥に大切に株券をしまっている人は、自分の財産が空になったと悟る前に、この機会によく調べてみるべきである。Yahoo辞書の新語探検に、こんな項目があった。


   タンス株

2007年11月16日
 個人株主が自宅などで保管している上場企業の「紙の株券」をさす。株の取引は、個人客が株価および株数に応じた現金を払い込むことによって「株券」が引き渡され、それを個人の家庭あるいは銀行などの貸し金庫で保管するというのが一般的だった。つまり、個人株主がその株券をタンスの引き出しなどに入れて保管しているところから、こうした個人の保有する株券を「タンス株」とよぶのである。ところが2009年1月からは上場企業の株券の発行を廃止し、売買や新株発行などについてはすべてコンピュータ上で処理されることになる。これを「株の電子化」といい、株主の権利は証券口座の記録によって確定し、その情報は証券保管振替機構(通称ほふり)を中心とするネットワークの中で管理されることになる。そのために紙に印刷された株券は09年1月以降は法律上無効となり、取引できないことになる。電子化の目的は、株券の印刷や運搬のコストの削減に加えて、偽造や盗難、財産隠しなどの防止にある。

 さあて、これで株という財産が自分の手元から離れてどこか遠いところで勝手に自らの姿を変えていきそうな気がして来ないだろうか。いや、すでにこれまでも株価の変動によって、株主は財産を自分の手元にしっかり捕らえているという感覚は持てていないはずである。いささか心許ない気分で、いつも株価チャートを眺めているに違いない。

 株価が少し下落するくらいはまだいいほうで、株式会社が倒産すれば株券は紙屑同然になる。・・・というのはこれまでの話で、これからは何と表現すればいいのだろう? いずれにせよ株という財産は一夜にして無に帰するのである。「財産がある」という状態が一夜にして「財産がない」に転化してしまうとは、そのような財産は本当に“有る”のだろうか。株という財産が誰かに奪われてしまうのではない、世界のどこにも、跡形もなく消えてしまうのである。株式というのはまさしく財産の“形式”であって、“実質”ではない。

 株式という一つの形式によって資金が集められ、会社が設立される。設立される前の会社はどこに“有る”のか、倒産したあとの会社はどこに“有る”のか。いずれも“無”である。そして、現在経営されている会社も、取引先との関係や資金繰りなどさまざまな条件によって存立している。会社の実体はそのいずれにもなく、せいぜいのところ会社を登記しているという法的手続きがその実体だと言えよう。これもまた紙切れのようなもの、さらに言えば法的手続きという観念的なものにすぎない。企業業績などを見れば会社の“実態”ははっきりしたものとして存在するが、会社の“実体”は存在しないと言ってもいいくらいである。株という財産は、そのような実態に依存して、配当金や売却益を受けとる権利として存在しているだけである。そこには確固たる固定的なものは何もない。

 それでも会社内の資金の流れとしては実体があるのだと考える人々に対しては、以下のような説明を付け加えておこう。たとえば、多くの商品を仕入れても、それだけでは商品は会社の所有する(正の)財産とは言い難い。それらが売れる見込みが全く無いのなら、それは屑同然だろう。倉庫に数千万円の(正の)財産があるのではなく、数千万円の負の財産すなわち借金を背負っているようなものである。物品は、それ自身で一定した固有の価値をもっているのではなく、さまざまな条件によっていかようにも変化してしまうような価値をもっている。我々は定価でその物品の財産価値を考えがちだが、実際はそんなものではない。

 ここで、物品の価値は変移しやすいとしても、紙幣や貨幣は一定の価値をもつと主張する人がいるかもしれない。だがそれは、1000円は昨日も今日も明日もその先もずっと1000円だという発想で見ているから、変わらないように見えているだけである。「それでどれだけのものが買えるか」という指標で見るならば、1000円に1000円の価値がなくなる場合もあり、また1000円以上の価値が出て来ることもある。インフレやデフレでそのことはほとんどの人が体験済みだろう。さらに身近な問題として、消費税率が上がれば、実質的にカネの価値は下がってしまうのである。

 もっと広い視野で見るならば、為替レートを見ればわかるように、日々刻々と円の価値は変わっている。隣の人が持っている円と同じく上下変動していて相対的な位置関係が一定だから、紙幣や貨幣の価値が一定していると思っているにすぎない。実際には、為替レートの変動によって金持ち国から貧乏国になることだってある。外国製品に多く依存している日本にとっては、円相場の変動がすぐに物品の価格として跳ね返って来るのである。素朴な人々は紙幣や貨幣を財産価値の基準にするだろうが、実際は物品との交換レートを財産価値の基準に置くべきなのだろう。仏教で縁起という場合には、こちらの方に基準がシフトしている。すなわち、貨幣は物品などと交換できるからこそ貨幣として存在しているのであって、そうでなければ貨幣とはいわない。

 さて、世界経済の変動に影響を与えるのが、投資マネーである。これがどのように動くかによって、バブルが起こったり不況や倒産が起こったりする。マネーが均等に分布しているか、どこかに集中しているか、どこかから欠如しているかで、そのマネーが額面以上の大きな力をもつことがある。それは、マネーそれ自体というよりもマネーの分布状況が作り出す力である。ちょっと儲かっている企業には銀行から融資話が持ち込まれ、どんどん株価が上がっていく。ところが何かの拍子で業績不振に陥ると、波が引くように資金が去っていき、倒産に追い込まれることもある。1+1が3にも4にもなる一方で、1-0.5が0になってしまう場合もあるというのが経済なのである。このような世界規模の投資マネーの大きなうねりの中に浮かんでいるのが、我々が手にしている1万円札や千円札だったりする。そこに恒常不変の実体を見るのは不可能である。


 このように、より広く経済活動の文脈で見ていくと、財産というのはさまざまな関係性のなかではじめて一定の形をもって存在できることがわかる。「私の財産」と言う場合には、そのような経済関係の網に支えられたほんの一部分を指しているにすぎない。網が破れれば転落するのである。

 このようなイメージを五蘊皆空に当てはめて理解すれば、たとえ五蘊への執着が皆無になって実相が見えてもやはりそこには実体が無いということがわかるだろう。

 
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