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2008年1月17日

空性の喩え(4)三性・三無性

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 今回は、唯識仏教の三性・三無性論の見地から空の構造を三段階で考えていきたい。

 三性とは、遍計所執性(または分別性)、依他起性(または依他性)、円成実性(または真実性)である。遍計所執性とは、凡夫が分別(概念的思考)によってあれこれと判断して何かに執着している心の状態をいう。依他起性とは、存在するものが他のものとの依存関係によって、つまり諸条件が組み合わさることで生起していると認識している心の状態を意味する。円成実性とは、空が完全に顕現している心の状態を意味する。

 一方、三無性とは、上記それぞれの心の状態を無の側面から形容した、相無性、生無性、勝義無性である。相無性とは、分別によって執着されている対象の形相は空華のごとく存在しないという性質を意味する。生無性とは、諸条件によって生起しているものは、幻のごとくそれ自体としては存在しないことを意味する。勝義無性とは、分別によって執着されている対象の形相が完全に無くなっていることを意味し、それはものが完全に退けられた虚空に喩えられている。

 私は三性を“心の状態”と説明したが、それは認識態度と認識対象の両方(すなわちその全体のありよう)を意味している。たとえば、「あばたもえくぼ」という言葉があるが、恋をして「えくぼ」だと見てしまう人にはその対象は「えくぼ」として現われている。しかし、冷静な別の人は同じ対象を見て、「あばた」がそこに現われているのを知る。この場合は、真実には「あばた」が客観的な対象になるのだろうが、逆に、大嫌いな人間の「えくぼ」は「あばた」に見える場合もあろう。同じ対象が見る人の心の状態によって違って現われて来ることは間違いあるまい。現われてくる対象は認識態度の影なのである。

 遍計所執性と相無性は、幻想と幻滅に置き換えるとわかりやすい。以前の喩えで言えば、「財布にカネがない」という場合のカネのありように相当する。財布の中身を覗かないかぎり、なんとなくカネがあるような気がしているが、そんなカネは財布を覗くとたちまちに跡形もなく消え去ってしまう。しかしながら、その存在しないカネになお執着する場合もある。「あそこであれを買わなければ・・・」などと後悔している場合がその典型だろう。頭の中は粉飾決算で満ちあふれているわけである。(笑) そして凡夫は、真実が露顕するまで粉飾決算の世界を現実だと思いなしているのである。

 かように我々は幻想のなかを生きている。しかし、そんなものは現実には存在しない。現実を直視して幻想を捨て去るのも空の修行の一側面であろう。はからいを捨てて、あるがままを見る。そんな教えは禅坊主からイヤというほど聞かされているのではないかと思う。そのレベルだけで般若心経を理解したり解説したりする人が非常に多いのではないかと思われるが、もっと深くまで見ないと般若心経は完全には理解できない。


 さて、その“あるがまま”の姿とは何であろうか。それは、あらゆるものが諸条件によって生起している縁起の姿である。それ自体として存立しているものは何一つない。あらゆるものは相互関係・相互依存のなかで存在しているのである。だが、このようなダイナミックな存在物の世界は、そのように構成されて存在していると便宜的に捉えられているだけてあって、諸条件としての確固たる構成要素が存在するわけではない。

 依他起性と生無性は、以前の喩えでいうならば、「私には財産がある」という場合の財産のあり方がそれに相当するだろう。さまざまな関係の網に支えられて財産が成立しているのであって、その関係の網が破れたら、一瞬にして財産が無に帰することもある。

 この地球環境も同様である。一カ所でも不具合が出て来ると様相ががらりと変わってしまう。日本人は山川草木がずっと変わらずにあると思ってしまいがちだが、人間の活動量が一定の限界を越えて自然条件が変化してしまうと、我々が何もせず直接それらに働きかけなくても、あるがままの山川草木など幻のように消えてしまうのである。生まれてからこれまでずっと変わらずにあった山川草木、いや何百年もつづいてきたらしい山川草木、あれは一体なんだったのだ。機械のような人工物であるならば構成要素の組み合わせという発想で知的に処理もできようが、自然に生まれて個物として存在しているように見えるものは、縁が欠けると風のようにその存在そのものが消えていくのである。


 一切の存在は縁起であるという場合、さまざまな縁が集まってそこに“何かが有る”のだという文脈が形成されうる。だが、「空性とは縁起である」という場合には、「諸条件によって構成されたものは、恒常的なそれ自体としては“無い”」という否定的側面に力点が置かれる。縁起には、構成されて何かが“有る”という肯定的側面と、実体としては何も“無い”という否定的側面とがある。空性という場合には、この否定的側面が前面に押し出される。般若心経の場合には、この否定的な方向へのベクトルが基本になっている。

 分別の世界を越えて「あるがままに見ている」ありようが依他起性であるならば、その依他起性の認識を徹底すると、いかなるものにもその存在の基盤がないことを悟ることになる。だから、「ないがままに見ている」ありようのが円成実性である。暫定的に存在物を仮設して見るならば、それは確かに存在するのだが、円成実性を悟っている者は、存在物へのこだわりが全く無いので、その存在物があるかのように心が強制されることはない。つまり、「あれがある」とか「これがある」という思いに引っかからないのである。

 幻想の対象は空華のごとくはなから無く、現実の対象もそれ自体としては無い。そのようにして「あれ」も「これ」もそれ自体としては無いということが明らかに悟られるとき、初めて空が完全に成就し、涅槃が達成される。

 以前に徳利の喩えで、「色に自性が無い」という真実を「徳利に酒が無い」という事態に喩えたが、これは「あらゆる存在物に自性が無い」という円成実性を暗示していた。酒が入っていなくてもからの徳利があるように、自性がなくても何かからの存在物がある。だが、永遠に酒が入らない徳利が限りなく徳利の意味をなさないように、永遠に自性がない存在物もまた限りなく存在物の意味をなさないのである。

 逆に、その無意味な徳利に酒を入れればたちまちにして徳利がその存在感を増すように、存在物が“仮に有る”と見なすことで、その存在物が意味を持ってくる。仏陀の言葉は、そのようにさまざまなものが本来は無であると認識しているにもかかわらず“仮に有る”として説かれた教えである。ただし、仏陀は巧みな手だてによって徳利に酒ではなくて水を入れる。酔える者にとってそれは清涼であり、それを飲んでいるうちに顛倒の酔いが醒めていく。それこそが、それ自体として有るのでもなく、まったく何も無いのでもない、という中道の教えだろう。

 般若心経を理解する場合には、その経文がこの三性のどのレベルについて述べられたものなのかをよくよく吟味して読まなければならない。だいぶ寄り道をしてしまったが、次回からまた経文の解説に戻ろう。


 
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