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2008年2月 2日

般若心経解説(9)色不異空 空不異色

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(漢文読み下し)

 色は空と異ならず、空は色と異ならず

(梵文和訳)

 色と異なることはない、空性は。空性と異なることはない、色は。

 サンスクリット語では、pRthak(~とは異なる;サンスクリット表記法はこちらを参照)という前置詞につながる名詞の格はablative(従格)なので、漢文でふつうに「色は空と異ならず、空は色と異ならず」と読むとサンスクリット語を正しく訳していないことになる。しかし、サンスクリット原文とは二句の順番が入れ代わっていると考えれば、漢訳でも実質的に意味はほぼ同じになろう。

 「異なる」の意味は、“別々のもの”という意味と解釈するとよかろう。実際この合成語には、pRthak-kArya(〔中〕別々の仕事、私事)、pRthak-kRti(〔女〕個人)、pRthak-zabda(〔男〕個々のまたは独立した語)、pRthak-pada(〔形〕単独の(合成しない)語からなる)というものがあり、引き離された別個の存在というニュアンスが強い。

 したがって、この経文は、色は色、空性は空性として別々に存在しているというわけではない、すなわち、色と空性は別々のものではないんだという認識に導こうとしているのである。

 一般人は、「色と空」を「有と無」と考えてしまいがちだが、空性というのは無ではなくて、「自性を欠いている」という意味である。何かがあろうとなかろうと、そこに自性はない。それが仏教の基本認識である。漢訳ではサンスクリット語の zUnyatA(空性)を単に「空」と訳してしまっているので、少々問題がある。単に空と訳すと、「有と無」の対立を考えてしまいがちだからである。


 ここで、以前に提示した徳利の喩えを使おう。それは徳利を色に、酒を自性(という観念)に喩えたのだから、真実には、徳利が有ろうと無かろうとそこに酒はないのである。ところが凡夫は、徳利があるとそこに酒があるように思えるのと同じく、色がそこにあるとそこに自性もまたあるような気がしている。そして、色が無くなったときに初めてそこに自性がなかったことが認識される。しかしながら、色はあってもなくてもそこに自性は存在しない。色は空性なのである。

 色は個物としての現象ある。他方、空性は“ものには実体がない”という存在のありようである。両者は把握の仕方が根本的に異なる。だから、まずは存在するもののこの二側面を全体として認識の中に取り入れなければならないだろう。「色不異空 空不異色」は、そのような認識の再編を求めているとも言える。

 色は、目で見て「これ」として捉えられる。そして、そのあとに「これ」のさまざまな性質が認識される。そのうちの一つが、“実体がない”という性質である。しかしながら大抵は、「これ」が“有る”というところから始まるために色の“実体がない”という性質は認識の中から弾き出されてしまう。そこで「空性は色とは異なる(別々である)」と考えられてしまいがちになる。それに対して般若心経は「色と異なることはない、空性は。」と教える。色のなかに空性という性質を入れ込もうというわけである。

 逆に、空性から認識を始める場合には、全てを否定的に捉える傾向がある。「あれもない、これもない……」というように、虚無の世界に入り込んでいく傾向がある。だが、それは色という個物としての現象を完全排除してしまい、これもまた真実を見ているとは言い難い態度である。無心の境地というのは確かに気持ちがよいだろうし、そこを安住の地とし、それを実体視したくもなるだろう。しかし、人間は生きているかぎりずっと無心の世界に安住するわけにもいかない。生きるためには存在の世界に関わる必要がある。したがって、虚無のごとき空性の世界にも色が入って来なければならない。

 また、空の観念に浸って色を拒絶していると、排除された色は、空性の意識世界の外で無意識的に実体として存在し続けるだろう。かくして色もまた空性の世界に引き入れられなければならない。

 空性は有の否定としての無ではない。空性を無と同一視していると、「色は空性とは異なる」ということになり、有が適切な形で空性のなかに入ってこられないのである。空性とは、有に浸透する無(=実体の無さ)である。あるいは、有を包摂する無である。だが、有といってもそれは実体ではない。縁起として仮に生じているからこそ、無が浸透し、無に包摂されるのである。そのようなものを色として空の観念世界に引き入れることができるとき、「空性と異なることはない、色は。」という教えが理解される。

 「色と空が別々のものではない」という状態を集合論的に考えてみると、それは、円で表わされる二つの集合の重なり具合によって容易に理解できるだろう。色と空が別々のものである場合、二つの円はまったく重ならない。しかし、経文はその状態を否定しているのだから、二つの円は少なくとも一部は重なっていることになろう。そうすると、これは三つの領域に区分される。「色であり、かつ空でない」領域1(黄色部分)、「空であり、かつ色ではない」領域2(空色部分)、「色であり、かつ空である」領域3(黄緑部分)の三者である。この段階でさらに色と空は異ならないという規定を適用すると、前二者が否定されてしまい、「色であり、かつ空である」だけが残る。ここまでくると「色即是空 空即是色」と実質的に同じ意味になるだろう。したがって、「色不異空 空不異色」は、ここまで両者を一体化させるために両者の観念を重ね合わせようとする働きをしていたのである。


色と空(1)             色と空(2)

 この経文では、最終的には後二者の両極端が否定されている。すなわちこの経文は、完全に実体化された色を否定することと、完全な虚無としての空を否定することとが含意されているである。空性を完全に排除する色も、色を完全に排除する空性も存在しないというのである。有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。

 徳利の喩えを使うと、こうなる。色に自性があるというのが否定されているのだから、徳利に酒がある状態が否定されている。同時に、何も無い状態も否定されているのだから、徳利がないので当然酒もないという状態が否定されている。肯定されているのは、「酒が入っていない徳利がある」という状態である。この認識に至る過程では、酒(自性)がないという状態を自覚しなければならないのだから、そもそも徳利(色)自体がない虚無の状態を経験しなければならない。しかし、それは自性の無を自覚するための方便である。はじめっから徳利がなければ酒を呑みたい気分も起こらずに安楽に暮らせるだろうものを、虚無の安楽まで否定して、酒の入ってない徳利を目の前に置いてじっとガマンしろ、というのが仏教の教えだとも言える。(苦笑)

 自性空を真理として認識し、それをしっかり腹に据えるまでは、「諸行無常 諸法無我」(すなわちあらゆる事柄に恒常不変の実体が存在しないこと)という現実に耐えるのは大変な苦行なのである。


 


 
 
 
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