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2008年2月14日

『ブッダと龍樹の論理学』を読んで

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学 -縁起と中道-』株式会社サンガ 2007年

 遅々として進まない般若心経解説をこのブログに連載している関係で、空思想に関連する本はちらちらと読んでいる。そのなかで最近面白かったのがこの本である。

 私としては、真理表を使って仏教の論理を解明しようとする試みが非常に新鮮だった。だが、その内容が優れているかどうかは微妙なところである。この本における真理表の適用の仕方は、一つ一つに関してはなるほどと思わせるものだが、全体として完全な一貫性をもって展開されているのか、私にはまだちょっとはっきりしないからである。要点だけ書かれているために私が誤読しているのかもしれないが。そのうちまたこの観点から読んでみようと思っている。ちなみに、ワタシ流の真理表の適用の仕方も考えているところだが、それはのちほどブログ記事にしてみようと思っている。

 私がこの本ですばらしいと思った点は、空の思想ないし仏教の論理を原始仏典(すなわちブッダの言葉)に遡って証拠立てていることである。空思想の彫りの深さのなかでブッダの言葉がありありと蘇ってきた感じがした。

 用語法に関しては、世俗諦の意味が私の使っている用法と少し違っている。著者はむしろ「虚妄な法」という側面から捉えているが、私は「世俗に現われた真理の法」という側面から捉えているからである。世俗に現われているかぎりは真理は一部しか見えないので、人々からは歪んで解釈される。だから世俗諦には虚妄と真理が混合しているはずである。世俗諦と勝義諦(第一義諦)といっても二種類の諦(すなわち真理)があるのではなく、諦そのものは一つだが、世間の言語世界に入った場合は世間世俗諦となり、世俗に交わらずに真理そのものとして超越的に存在している場合は勝義諦である。

 また、著者は第一義諦を言葉の世界の中(?)あるいは真理表の中に置こうとしているが、私はこれに反対である。あえて言うならば、真理表のうち「完全なる不在」という場所に当てはまるのみと言えるだろう。たしかに形式としては当てはまってはいるが、それは完全に不在である(=そこには無い)という意味で当てはまるのである。さて、第一義諦の本体は存在するのかしないのか。まさに語れないという形でのみ存在するのだろう。

 龍樹の著作の章に関しては、私は著者を批判できるほど詳しくないので、そういうものかと思って読んだ。龍樹の思想の全体像を学びたい人にはほかの本をお奨めしたい。

 経典を深読みしたい人には、これは解説書としてあまり役立つ本ではない。しかし、真理表を使って難解な空の論理のもつれをほどこうとした斬新な試みという点では大いに読む価値がある。少なくとも私の知性にとっては、じつに“刺激的な”本であった。

 
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