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2008年5月19日

『目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話』を読んで

上田紀行『目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話


 この本は、なかなかエキサイティングである。ダライ・ラマとの対話の熱気が伝わってきて、私も一気に読んでしまった。それほど難しい仏教理論を展開しているわけでもなく、仏教にあまり親しんでいない一般人にもわかりやすい内容になっているので、多くの人に一読を薦めたい一冊である。

 上田紀行といえば少し前に「癒し」というキーワードを広めた文化人類学者である。実際、彼の考えそれ自体はさほど深みがあるものではない。しかし、彼の問題意識は真摯であり、それに対して仏教的な観点から熱心に応えているダライ・ラマは、じつに真剣であり、しかも楽しそうである。

 現在の日本仏教は堕落しているが、それを再生させ、人々の幸せのためにもっと役立てるべきではないか。こういう上田紀行の問題意識は、私の問題意識とも同じであり、その意味でもダライ・ラマの見解は非常に興味深かった。

 ダライ・ラマは、左翼思想の文脈で自分を搾取者と位置づけてみたり(上掲書 p.59)、あるいは、金銭万能の資本主義者よりも慈悲に基づく社会主義者であると自らを位置づけて、「もしかすると私はいまの中国の指導者たちよりもずっと左翼系ですよ」と爆笑してみたり(上掲書 p.60)、なかなかユーモラスな一面も見せている。

 そのような彼は、昔ながらの仏教を単に押しつけるのではなく、現代の科学や社会との接点をさぐって発言している。たとえば、

 仏教を現代において活きたものとするためには、仏教をまさに復興させなければいけないわけですが、そのためには、科学的な知見に基づきながら、仏教の教えを完璧に説明しきることが必要なのであり、それが現代における正しい方向性なのではないかと思います。
(上掲書 p.171)

 仏教徒であるならば、仏教的なシステムがいかに機能するのかについて、表面的なものではなく、もっと深いレベルの知識を得るようにつとめなければなりません。そしてその仏教の実践に対して、現代の科学的な発見と照らし合わせて徹底的に調査し、結果を得たならば、仏教のシステムがまさに現代においても機能し、活かせることに深い確信を持つことができるのではないかと思います。
(上掲書 p.172)

 仏教徒が取り組むべき主な修行は、カルナー(注:慈悲のサンスクリット語)、すなわち慈悲の実践ということです。そして、慈悲は社会活動というかたちで実践されるべきです。そのことはもう避けて通れないことです。
(上掲書 p.177)
 このように、彼は仏教を、現代に生きる知的・社会的な生活システムにしたいのである。そんな情熱が、この対話のそこかしこから伝わってくる。

 仏教の教理に関する発言がほとんどなかったので、私としては少々物足りない感じがしていたが、とくに注目した部分をここに引用しておきたい。

 第一は、空の理解と慈悲とがどのように関連しているのかという問いに対する答えである。

 縁起に基づく空の意味を知ってそれを理解すると、生きとし生けるすべてのものたちが得ている苦しみの根本には無明むみょうの心が存在していること、そしてその無明は滅することが可能であるということを理解できるようになるのです。「空」の理解と、「無明」の心とは、まったく相反するもののとらえ方です。「無明」とはまさにすべての物事が「空」であること、相互依存していることを理解していないことですから、それゆえ、空の見解をより強く確信すればするほど、無明の心はその力を失っていくことがわかります。
 このことを知ると、私たちが間違ったもののとらえ方をしてしまう源であり、それゆえ私たちの苦しみの源であるといえる無明は、空の見解を育むことによって滅することができるものだということがわかります。すると、そのような無明の状態によって衆生が苦しみを得ている状況を見るとき、ああ、なんとかしてやりたい、という慈悲の感覚が起きてくるはずなのです。苦しんでいる人を見て、その原因が見えるようになる。となればその原因を滅すれば、苦しみがなくなることもわかります。つまりその無明を滅すれば、苦しんでいる人の苦しみもなくなることがわかるわけですから、その人を何とかしてあげたいという、慈悲がそこに生じてくることになるのです。
(上掲書 pp.122-123)

 第二に、仏教徒には三宝(仏法僧)への帰依が求められるが、これによって何かに完壁に依存してしまい、自立の精神が失われるのではないか、という問いに対する回答である。

仏教における帰依というのは、特に大乗における帰依が意味しているのは、自分自身がブッダのようなすばらしい存在になりたい、と強く願うことですから、そこには個人のプライドがたいへん強く存在しているわけなのであって、それは依存ではないのです。
(上掲書 p.196)
 説明がかなり簡略化されていて、彼が独自の見解を提示しているようにも見える。しかし私の見解で少し補足するならば、三宝帰依とは、自らが仏陀となるための根拠や基準のようなものに我が身を置くことである。仏陀のような超越者になりたいと思うこと自体が、世俗社会ではなく仏陀を基準に我が身を置くことであり、また、仏陀になるためのものの見方や考え方を認識根拠にすることが仏法への帰依である。さらに、そのための生活規範に基づこうとするのがサンガ(僧侶集団)への帰依である。そのためには、仏教を深く納得し信頼しなければならないのだが、現代の仏教はそれに十分に応えられるであろうか。ダライ・ラマが仏教を現代科学の最新知見からも捉え直そうとするのは、まさしく仏教が現代人の知性にも受け容れられる内容をもっているはずだと確信しているからだろう。現代人が現代の知性をフル活用して「ああ、やっぱり仏教の言っていることは正しいんだ。」と十分に感じられてこそ、三宝帰依が成立するのである。しかも、自分も仏陀になりたいという強い気持ちがそこに加わってはじめて、依存でない帰依がありうるだろう。


 このブログ記事ではこの対話の具体的な内容についてはあまり触れなかったが、この本は「慈悲に満ちた思いやりのある社会にするにはどうしたらいいのか」というテーマをめぐる二人の“白熱した”議論の記録である、という点だけは指摘しておきたい。


 
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