『ダライ・ラマの仏教入門』を読んで
最近は一般の日本人もチベット問題に関心を向けるようになってきている。しかし、それはチベット人に対する中国政府の暴力的人権侵害についてであって、チベット仏教にまで関心を向ける日本人はほとんどいない。それどころか仏教は葬式専門だと信じ込んでいて、教えとしての仏教さえ知らない人も多いのだろう。
ダライ・ラマの仏教入門―心は死を超えて存続する (知恵の森文庫)
ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャムツォ (著), the Fourteenth Dalai Lama Tenzin Gyatso (原著), 石浜 裕美子 (翻訳)
価格:¥ 520 (税込)
文庫: 226ページ
出版社: 光文社 (2000/06)
チベット仏教というと砂曼荼羅とか男女が交合するエロティックな尊像とかの密教を連想する人も多いとは思うが、やはり原始仏教や大乗仏教が基礎となって、そのうえにチベット密教がある。この本は十二支縁起から説き起こして大乗仏教の空と慈悲の教えを解説し、さらに密教の話にまで及んでいる。
説明は非常に平易であり、一般人でも十分に理解できるレベルである。また、原書にはない翻訳者の注がまた理解の助けとなる。しかしながらそれでもまったくの初心者にはわかりにくい。せめて基本的な仏教史を勉強している必要があるかもしれない。
まずは以下の私の解説を頭に入れてから読み進めるとこの本の内容がすんなりと入ってくるだろう。
序章のポイントは、仏教の二面として「見解」と「行」があるという観点だろう。前者は空の認識であり、後者は慈悲の実践である。これは瞑想に関しても「分析的瞑想」と「心を安定させる瞑想」という表現で分類されているようだ。
第一章は、縁起と空の思想について解説されている。縁起とは、事物はそれ自体として自ら存立しているのではなく他のもの(諸条件)によって成立しているというあり方を意味する。これは空と同義である。縁起の意味には三つのレベルがある。
第一レベルは、因果関係としての十二支縁起である。無明から始まって老死に終わる十二項目からなる因果関係が解説されている。
第二レベルは、あらゆる事物はその構成部分に依存して仮設(けせつ;仮に設定)されたものであるという認識観点である。最初にさまざまな事物について述べられているが、修行として最も重要なのは、心身に依存して私が仮設されているという認識だろう。私には手足や胴体や頭があり、感情や思考や記憶があり、その他さまざまな部分があるが、私は心身のどの部分でもなく、また部分から独立した魂のような単一の主体として存在しているわけでもない。しかし、それにもかかわらず働きとしては私は存在している。
実体として存在しているわけでもなく、かといってまったく無いのでもなく、という認識のしかたを「中観」という。実体としての」とか「それ自体で存在している」という限定詞がつけられない主体を彼は「単なる私」「単なる人」と呼んでいる。
第三レベルは、「対象を仮設するものとしての概念的な思考に依存して生じ、ないし、仮設されて存在している」というあり方である。これについてはわかり易い説明がなされていないので、私の喩えで説明しよう。○○さんという存在は、単一の実体であるように思えるが、その対象たる“知性をもった肉の塊”は時々刻々と変化している。その姿は大きくなったり太ったり痩せたり衰えたりするし、その細胞はどんどん入れ代わっているし、考え方や感じ方は変化している。しかし、我々がその対象に「○○さん」という名称を付与することによって何らかの経験を積み重ねている単一の存在者として認知されるようになる。
転生する主体を考える場合には、このような観点から見ていくとよい。仏教以外のインド哲学は常住で単一で独立した自我(アートマン)を立てた。唯識派はアーラヤ識を、また別の学派は五蘊(人間を構成する五つの要素)の連続体を「私」として設定している。だがダライ・ラマの属する中観帰謬論証派は、五蘊に仮設されたものとしての「私」を認める。
「名前だけの存在」「単に名前によって仮設されたもの」である名目的な存在としての「単なる私」は、しかしながら働きとしては潜在力(習気)の蓄積の基体である。潜在力とは、心・口・身体でなした行為の結果が未来への影響力として潜在的に残存しているものであり、これが業の報いを形成する。その報いを受けるのが、「単なる私」としての未来の自分なのである。実体はないが働きは相続されるというのが彼らの立場である。
第二章は、修行論である。利他心が必要という大乗仏教の観点からシャーンティデーヴァ『入菩提行論』なども引き合いに出して六波羅蜜を説き、さらにチベット密教の教理まで解説していく。この章の前半部分は理解し易い。しかし、後半になってくると、かなり修行が進んだ人でないと言語上の意味以上のことは理解できないだろう。これをよく理解するためにはもっと詳しく修道論を学んでいる必要がある。
第三章は、ほとんど仏陀になりかけている境地についての解説である。理解は困難だろうが、読者はその雰囲気だけでも掴めるとよいのではないかと思う。
第四章は、『チベット死者の書』を引き合いに出して、死がどのようなものかを簡単に説いている。また、仏教に則りながらも現代人にふさわしい修行のしかたをアドバイスしている。
書名が『仏教入門』であるにもかかわらず、単に初心者相手をしているのでなく、伝えるべき内容のレベルは下げずに説いているので、かなり仏教に親しんでいる人にとっても新鮮な発見がある書物ではないかと思う。
せっかく日本人がチベットに関心を向けるようになってきたのだから、これから少しチベット仏教関連の本を紹介していきたい。
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コメント
はじめまして。かぜともうします。このサイトにきて、まだ日があさい者です。記事についてではないのですが、ひとつ質問をきいてください。私は以前、朝目覚めまぎわに、丸の光と縦線の光が重なる不思議な光をみたのです。このサイトの、名前の中の丸に縦線とそっくりでした。このマークは、どんな意味があるのですか?良ければ教えて下さい。よろしくお願いします。
投稿: かぜ | 2008年5月18日 19時22分
Φのことかと思いますが、これはギリシャ文字ファイの大文字です。小文字はφで、空集合を意味する数学記号としてよく使われています。そこで私のサイトでは「空」を象徴するものとして使っています。一方、Ψはギリシャ文字プシイの大文字ですが、こちらは金剛杵と形が似ているので「智慧」を象徴するものとして使っています。
かぜさんの夢の意味とはあまり関係ないのではないかと思います。その意味を探究したいのなら、むしろユング派の分析家のほうが役に立つのではないでしょうか。
投稿: 金剛居士 | 2008年5月19日 07時57分
どうもありがとうございました。ナルホドですね。このサイトいろいろ勉強になりますね。ひとつひとつ読ませていただきます。またコメントしたいと思いますので、良ければお付き合い下さい。ペコリ&合掌。
投稿: かぜ | 2008年5月21日 01時14分