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2008年5月31日

『幸せに生きるために』を読んで

 

ダライ・ラマ14世『幸せに生きるために―ダライ・ラマが語る15の教え


 これは初級者向きのお薦め本である。

 まず書名についてコメントしておきたい。この原題は“An Open Heart: Practicing Compassion in Everyday Life”である。現代日本では「幸せ」には、欲望の満足というニュアンスが強く、原題の“日常生活で慈悲を実践する開かれたハート”とは、だいぶイメージが違う。この邦題のほうが売れるのかもしれないが、私としてはこの本の目次を見るまでは薄っぺらで表面的な道徳的お説教かと誤解していた。むしろ「慈悲行入門」というような邦題でも付けておいたほうが、読んでもらうべき人の手に渡りやすいのではないかとも思った。

 さて、この本は1999年にニューヨーク市セントラルパークで行なわれたダライ・ラマの講演であり、仏教徒が究極の悟りに達するための実践的手法が説明されている。この講演は、カマラシーラ『中編版・瞑想の段階』、トクメー・サンポ『三十七の菩薩の実践』、ラングリ・タングパ『心の鍛練についての八行詩』を参考にしているという。(p.35)

 この本は、大乗仏教修行の入門的な概説だと言えよう。日本仏教では、仏さまやご宗祖さまをひたすら信仰すれば救われるというような易行の考え方が強いが、チベット仏教では、むしろ日本仏教でいうところの自力聖道門的なオーソドックスな修行を教えている。といっても一般向けの講演なので、専門的な議論はほとんど扱っていない。むしろ修行階梯の入門部分のアウトラインを垣間見させてくれる内容だと言える。


 たとえば三宝帰依については、

 仏教徒とは、仏陀と、仏陀の教えである法と、その教えにしたがって修行する僧団(サンガ)に最終的なよりどころを求める (帰依する) 人と定義されます。このよりどころを総称して、仏法僧の「帰依三宝」といいます。三宝(さんぼう)に帰依する意志をもつためには、まず、いまの苦しみに満ちた人生に対する不満を認めなければなりません。生の不幸な本質を認識しなければなりません。これを本当に深く認識すれば、自然といまの状態を変えたくなり、苦しみを終わらせたいと願うようになります。そうすると、それを実現する方法を見つけたいという動機が生じます。その方法を見つけるにあたって、仏教徒はそれを自分が逃(のが)れたい不幸から守ってくれる保護や避難所と考えます。仏法僧はそうした保護を与、えてくれるものと考えられており、したがって苦しみから逃れるよりどころを求めるにふさわしい相手なのです。この精神で、仏教徒は三宝に帰依します。(pp.41-42)

頭ごなしに「帰依しなさい」ではなく、帰依にどういう意味があるのかを的確に、しかも簡明に説明している。


 また、実際的なアドバイスもしばしば見られる。たとえば師の選択について、

 ふさわしい教師かどうかを見定めるには十二年はつきあわなければならないと言われます。これが時間の浪費だとは思いません。それどころか、師の資質がはっきりと見えるようになればなるほど、その人は私たちにとっていっそう大切になります。あせって資質のない人に身を捧げたら、たいてい悲惨な結果を招きます。ですから、未来の教師を吟味するときは時間をかけましょう。これは仏教でもほかの宗教でも同じです。(pp.46-47)

こんなことまでご丁寧に教えてくれる日本の仏教者は非常に少ない。


 ダライ・ラマは、あまり「○○仏を信仰しなさい」とか「○○菩薩を信仰しなさい」とか勧めない。むしろ瞑想しなさいと勧める。それは二種類あり、心を任意の対象に集中させる落ち着いた瞑想と、分析的な瞑想である。どうやら奢摩他(=止)と毘婆舎那(=観)を指しているらしい。

チベット語では瞑想のことを gom といいます。「習熟させる」という意味です。私たちが精神修行で瞑想を用いるとき、それは任意の対象に自分自身を習熟させる、つまり、その対象をよく知るということです。(p.51)

 瞑想の対象は、煩悩でもよいし、カルマでも、善心でも、空でもよい。心を落ち着けて対象と向き合い、仏教的な観点からそれを分析していくことが修行の基本となる。そうやって煩悩が克服され、また、あらゆる対象が空であることが認識される。

 落ち着いた瞑想も、それ自体に徳があるわけではありません。むしろ、どんな対象に集中するか、どんな動機で行なうかが、瞑想の精神的な質を決めます。意識があわれみに向けられているのなら、その瞑想は有徳です。しかし怒りに向けられているのなら、有徳ではありません。(p.56)

 貪りや怒りを燃え上がらせるために対象に意識を集中し、それについていろいろと考えても、それは何らよい結果をもたらさない。むしろ、それらの対象が空であることを認識するために、心を落ち着けて熟考することが有徳な瞑想なのである。


 空とはあらゆる存在には実体が無いことを意味するが、多くの人々は自分の欲しいものに確固たる実体的な何かを見て、それにしがみつき、それを得られないと怒りや失望のような感情に襲われる。それは、その対象にありもしない現実を与えることにほかならない。

 私たちのすべての苦しみが、こうした現実の姿への誤認から生じていることを理解し、その理解とあわれみの心とを結びつけたとき、私たちは精神性の旅の次の段階に進んでいます。この誤った認識、存在しない自己への誤ったこだわりに不幸のおおもとがあるのだと認識すれば、その苦しみは排除できるとわかります。ひとたび誤った認識を取り去れば、もう苦しみに煩わされることはありません。
 人びとの苦しみは回避できる、乗り越えられないものではないと知れば、自分で自分を救えない人びとへの同情がさらに強いあわれみを生みだします。こうして生じたものでないかぎり、いくら強いあわれみの心をもっていても、それはおそらく希望のない、いや、絶望的なものであるでしょう。(p.89)


 この本には道程の二側面として「広大行」と「甚深行」が挙げられているが、これは福徳と智慧の二資糧のことだと思われる。広大行としての「あわれみ(=悲)」の心をもつためには、まずは他者の苦しみに対して共感することができなければならない。すべての生き物が幸せを得られるようにと願う「いつくしみ(=慈)」の心もまた、他者に対して思いをめぐらすことから生まれてくるだろう。
 
 
 
 
 
 この本は、唯識五位で言えばほとんど資糧位についてのみ書かれているのであって、ほとんど入門的なものである。しかし、狙いをきちんと定めれば矢が的の方向に飛んで行くように、この本ではかなりはっきりと修行の方向づけがなされているので、その方向に仏の境地があると考えて間違いない。仏教のことはまだ右も左もよくわからない段階の人には、途中で道に迷わないように是非とも一読してほしい本である。

 
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