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2008年7月 8日

六字大明咒について

 
 HaChiさんが「六字大明咒」というブログ記事を書いていて、私がそれにちょっとコメントを入れた。その後それに関していろいろ考えたので、今回はその考察を書き留めておきたい。

 「六字大明呪」は om mani padme hum であり、om・ma・ni・pa・dme・hum の六音節から成る。pad・me のほうが音節として区切りやすい感じがするが、サンスクリット文字を見ると、pa と dme が各一字になっている。

 maNiは摩尼、宝珠であり、padme は padma(蓮華)の於格(locative)である。『仏説大乗荘厳宝王経』に「安六字大明 四臂肉色白如月色 種々宝荘厳 左手持蓮華 於蓮華上安摩尼宝 右手持数珠 下二手結一切王印」とあるので、「於蓮華上安摩尼宝」からとられたもの(あるいは六字大明咒をもとに仏像のこの部分が作られたか?)だろうと思う。

 HaChiさんのブログのコメントには、私が、摩尼を智慧、蓮華を慈悲の象徴と見なしていると書いたが、その後いろいろと瞑想していて、微妙に解釈を変えたほうがいいかもしれないと思い始めた。maNi は bodhi(菩提,悟り)や buddhi(覚)を象徴しているのではないかと思う。また、padma は sattva(衆生,存在するもの)か citta(心)を象徴しているのではないかと思う。そして、両者で bodhi-sattva(菩提薩埵,菩薩)あるいは bodhi-citta(菩提心)になる。ところで、菩薩は「上求菩提,下化衆生」(上に向かっては菩提を求め、下に向かっては衆生を教化する)と言われるが、上求菩提は明知(vidyA)に基づいて実践されるのだろうし、下化衆生のための手段は慈悲だろう。だから、智慧と慈悲の要素は、摩尼と蓮華の中に含まれているには違いないのである。ただ、padma(赤蓮華)は puNDarIka(白蓮華)と比較した場合に微妙に劣るから、もう少し広い射程で象徴的解釈をしてみた。

 HaChiさんは、「真言密教の金胎不二の立場だと、mani=金剛界、padma=胎蔵生、とも配されるかと思います。」という見解(?)教義(?)を提示してくれた。だが私の六字大明呪解釈においては、金剛界と大悲胎蔵生は対等の関係というよりは前者が後者の上に浮いている形になるだろう。そうなると金胎不二の思想とは微妙にずれてくるのかもしれない。

 あるいは、「マニ・パドマ」という対等な金胎不二の全体を於格にしているのかもしれない。格変化を考えた場合に、私の解釈の場合にはマニ(男性名詞)を主格にして maNiH とするほうが正確なようにも思える。H は Bach のハのような発音であり、ほとんど発音されないと考えても差し支えないから、発音上の問題はないと思う。しかし、サンスクリット文字をみると H は無いから、文法上は両者一体のイメージで扱っているのかもしれない。すると、その両者を一括した「マニ・パドマ」を於格にした真言は、“慈悲に於ける智慧”に礼拝しているというよりは、金胎不二の境地に礼拝していることになろう。

 私が「慈悲に於ける智慧」という解釈をとるのは、菩提なり智慧なりが衆生ないし心に降りてくる(または、そこに置かれる)という意味をイメージしやすいからである。私にとってはこの解釈で真言を唱えるほうが「肉色白如月色」という白イメージがうまく生じてくる。

 格変化を把握して真言の意味を理解しようとすると、たとえば「菩提心は」「菩提心へ」「菩提心において」「菩提心から」のように、細かいニュアンスをはっきりと捉えることができる。私はまだいちいち調べてはいないのだが、他の真言でも格変化を確認しながら唱えると、また一味違ったものになると感じている。この六字大明咒も「おんまにはんどまうん」と「おんまにはんどめいうん」という発音があるようだが、後者のほうが原音に近く、意味としても正確である。

 『仏説大乗荘厳宝王経』が出てきたついでに、「数珠」についても触れておきたい。まず、数珠を何の象徴と見なすかである。「108という数は煩悩の数を表すとされ、数珠の珠はそれぞれの煩悩を司る108の仏を表し、人間のあらゆる煩悩を数珠が受けるとされている。」し、真言や念仏の数を“数える”ためにも用いられるので、煩悩を“数え上げる”道具と考えてもいいのではないかと思う。

 煩悩は無明(avidyA)を根本とするから、それを見逃さずに一つ一つ数え上げることができるのは明(vidyA)によってである。ただ煩悩を数え上げるだけではなくて、衆生の中に見つけた一つ一つの煩悩から救い出すという智慧の具体的な働きとして数珠を考えることもできよう。数珠が煩悩を吸収するというような代受苦の考え方もありうる。いずれにせよ、観音菩薩の慈悲の働きの一つとして数珠を象徴的に解釈することもできる。そうすると、左手の摩尼は智慧、右手の数珠は方便、という考え方もできよう。

 私にとってはサンスクリット原音で唱えるほうが意味を観想しやすいのだが、それは、前述した格変化の見地からある程度は説明できたのではないかと思う。だがもう少し詳しく、発音上の観点からも論じてみたい。

 サンスクリット原音で唱えるほうが音と意味とが結びつきやすいのは、サンスクリット語で仏教概念を把握したいという私の学習態度にその根本的事情がある。まずは漢訳仏教用語に対応するサンスクリット語を知り、それをもとに仏教の内的世界を把握したいのである。漢訳はどうも現実的というのだろうか、内的イメージの不思議な世界を捉えるのにはふさわしくないように思える。だから私は、サンスクリットの仏教用語に内的世界のイメージを注入して仏教を把握したいと思っている。

 サンスクリット語と結びつけにくい訛りの強い発音は、やはり音から意味が即座に出て来ない。真言が完全に日本語化していて、「ハンドマ」で即座に“蓮華”が思い浮かぶ人なら問題はないのだろうが、私は「パドマ」でないと仏教各派に通底するイメージでの蓮華は思い浮かばない。私にとっては、観音の世界のみならず蓮華蔵世界その他まで含めて「パドマ」をイメージしている。(もっとも、赤・白・青の三色を区別しないと正しく蓮華の象徴的世界を把握できないのだろうが。)

 弘法大師がサンスクリットを理解した上で現存の真言の発音を採ったというのは確かだろうし、在世当時は僧侶も正しく発音していたかもしれない。しかし、耳で聞き取るのを繰り返していったために、時代が下るにつれて訛りが激しくなってきているのではないかと思う。

 ここでは六字大明咒の中の「鉢訥銘(padme)」を例にあげよう。鉢がサンスクリットのパ音に対応するのは、たとえば毘鉢舎那(ビパシャナー)などの語から明らかだが、これはまた毘婆舎那とも表記されるから、バ音にも近いことになる。さて、日本の真言ではこれがハンと発音され、日常語ではハチと発音されている。ただし、三鉢・四鉢・八鉢のように、唇が閉じた後に発音する場合はパ音に変化する場合もある。さらに言えば、中国音ではどうやら puat のように発音されていたようだ。これなら puati から pachi に日本語化していくのも理解できる。

 以上から想像されることは、サンスクリットでパ音は、鋭く息を破裂させるパ音ではなく、マ音と紛れそうな柔らかい音だったということである。現代の中国語でいえば、有気音pよりもむしろ無気音bに近かったのではなかろうか。ところが日本の真言でのハンはむしろh音になってしまう。

 p音に関連して、ついでに「般若波羅蜜多」を取り上げたいと思う。「ハンにゃハらみた」だからハ音のようだが、サンスクリットでは「プラジュニャーパーラミター」だからp音である。般や波は、「一般」「熱波」のように直前で唇を閉じるとパ音になる。

 ちょっと話が脱線するが、インドではジュニャーに相当する部分をギャーと発音する場合も多いようである。老若男女は「ろうジャクだんじょ」とも「ろうニャクなんにょ」とも発音するが、最後のクは母音のないk音であり、ジャやニャと聞こえるだろう。そして、ニとジの中間音を出そうとすると、ギャとも聞こえそうである。そして、読経するように一音一音を長く伸ばして般若波羅蜜多を発音すると、パーンジャーパーラーミーッターとなるが、ここでさらに羅蜜だけを短く発音すれば、パーンジャーパーラミッターとなって、かなりサンスクリット原音に近づいてくる。

 こんな発音談義は一般の僧侶にとってはどうでもいいことかもしれないが、私としては音のコピーの繰り返しによってどんどん劣化しているように思えてならないのである。このp音も、できるだけ息を破裂させないでホワッと発音していると、聞いているほうはh音と誤認する可能性が高い。大勢で読経している場合は、特にそうだろう。かくして一般のお経の読み方でも訛りがひどくなってくる。だが、少なくともサンスクリット音をそのまま写したとされる真言に関しては、やはりサンスクリット原音を探究していってもらいたいと思う。伝統的発音を完全に否定すべきとまでは言わないが、伝統的発音の範囲内で少しでも原音に近い発音の仕方があってよいのではなかろうか。


 私にとって原音のほうが観想しやすいというのは、三密が融合するという意味もある。我々が「レンゲ」と言われて蓮華の花を何の苦もなく即座にイメージできるように、真言はそのまま対象イメージになる必要がある。口で真言を唱えて、それとは別にあらためて心に仏を思い浮かべようとするのでは、三密が一体になっていない。今回は手印については言及していないが、口に真言を唱えると即座に仏菩薩の境地が心に現われるのが三密加持ではないかと思う。日本の真言行者は伝統的な訛りの発音でも即座に仏菩薩の境地が出てくるのかもしれないが、私としては「伝統的発音 → サンスクリット音=その意味」というように一度頭で操作しなければならないので、それでは“真言”とはちょっと違うのではないかと思う。


 ま、他人の修行のしかたに口出しするのは品が無いとは思うのだが (^^; 、やはり仏教が本来の功徳(すぐれた働き)を回復・維持・発展できるように。


 
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仏像」カテゴリの記事

コメント

HaChiさんのところから飛んできました。
はじめまして。

私もsktの発音はよくできませんが、中国語と比較していらっしゃいますので、その関係から一言申し上げます。

中国語では「p」と「b」を取り違えて発音してもあまり問題がありません。
しかし、「p」「ph」の発音には明瞭なちがいがあります。

例えば、「私はパン(pan)を食べたい」というのを「私はバン(ban)を食べたい」と言ってしまったとき、日本語だと妙なことになりますね。
「え? ban? それって車だよね?」みたいな。
でも、中国語では問題にならないのです。

逆に「私はパン(pan)を食べたい」と「私はパン(phan)を食べたい」を区別する日本人はいないと思いますが、中国人でpとphを混同する事はまずありません。

サンスクリットもこのような発音感覚があったのなら、あなた様の仰るようにpはbに近く柔らかく発音するものでしょうね。
hは、日本ではともすると激しく発音されがちですから、pをhと転訛する事はあまり望ましくないのかもしれません。
激しく発音するhはビサルガっぽくなってしまい、sktでは全く違う音になってしまいます。

サンスクリットの「ジュニャーナ」は確かに「ギャーナ」とも聞こえます。
これも中国音のrが「リ」「チ」「ジ」「ギ」などに聞こえてしまうことと同様かもしれません。

それから母音のないk音はかつての日本語にも存在しました。
経典や声明でよくでてきます。
「オーム」のmの音も、その他の特殊な連声も、山上では未だに伝承されています。

またお伺いしますね。
お邪魔致しました。


投稿: 隆蓮房 | 2008年7月 9日 22時28分

隆蓮房さん、いらっしゃいませ。コメントありがとうございます。

 こちらのコメントおよびTBは、承認後に公開という手続きになっていますので、公開まで1日程度お待ちください。


 このサイトでのサンスクリット語の表記は、Kyoto-Harvard方式でやっています。以下のサイトの KH-kyoto に当たります。
http://texa.human.is.tohoku.ac.jp/aiba/codes/table/table-skt-01.html
最初は多少見づらいですが、私はほとんど単語しか引用しませんのですぐに慣れます。おぼえるコツは、母音の上に  ̄ が付いている場合と、子音字の下に点が付いている場合には大文字になること、あとは G,J,z が何に相当するかを頭に入れてしまうことです。


 中国語とサンスクリット語の発音については、以下のように考えると良いのではないかと思います。
  サンスクリット文字表記の ph と bh → 中国語発音表記の [p]
  サンスクリット文字表記の p と b → 中国語発音表記の [b]
私は、息が前にフッと出る有気音か[p]、出ない無気音か[b]で考えています。中国語では有声音と無声音の区別がはっきりせず、有気音と無気音の区別がはっきりしている、と認識しています。また、その前提で記事を書きました。


 母音のない[k]音についてですが、例を出していただかないと私の想像と違っているかもしれませんが、クシャナ(刹那)のような例では、自然と母音は脱落します。しかし、ヴィサルガ(H)に関してなら、少し事情が違うかもしれません。

 たとえば、真言で namaH samanta...が「ノウマク サンマンダ……」と発音されるので、これは母音のない[k]音のように思えますが、おそらくドイツ語の bach(バッハ)の ch のような喉の気音が後続の[s]音に影響されて[k]音に聞こえて転訛したのではないかと思います。


 ちなみに、オームは oM であり、M は後続の音によって微妙に変化する「ン」だと言えます。日本語で「ハンコ」「ハンガー」「カンシャ」「デンパ」の「ン」が微妙に違うようなものです。オームのムは、[mu]とか[m]と発音するのではなくて、後続の音との関連で適当に「ン」と発音していれば間違いないような音だろうと思います。


 私もそんなにサンスクリット語に詳しいわけではなく、これからいろいろと勉強していかねばと思っているところです。

投稿: 金剛居士 | 2008年7月10日 21時31分

こんにちは。

例を出せとのことですので、御呼ばれします。

1.母音を伴わない子音
例を挙げますと、私の持っている経本では「眷属」の「属」のところに「半音」と注意書きがしてあります。
これは「kenshok」と母音を伴わないで発音します。

ここからは蛇足です。

2.オームのm音について。
なるほど、そうかもしれませんね。
ただ、あなたのおっしゃっているのは連声の一種だと思われます。
私はそんなに難しい事を考えて発言したのではなく、単純にm音には2種類のフリガナが実際に存在し、かつ現在も使い分けられていることを踏まえて書き込みました。

3.日本語における「ハ」
昔(少なくとも室町時代まで)は「ハンドマ」を「handoma」とは発音しなかったということです。
「母は昔はパパだった(pa→fa→haと変化した)」ので、多少時代が下ってもpaの発音に「ハ」とフリガナを振る事に違和感がなかったのかもしれない。
しかし、そのうちに「ハ」の発音自体が変わっていき、今では「ha」としか発音されなくなってしまった。
お大師さまは何と発音されていたのでしょうね。

以上、長くなりましたが、原音を忠実に発音したいというあなた様の姿勢を非難する気は全くございません。
記事の主題から外れてしまってすみません。

失礼致します。


投稿: 隆蓮房 | 2008年7月11日 22時51分

隆蓮房さん、毎度コメントありがとうございます。


 「は」の音が pa → hua → ha と変化したことについては私も知っています。そこで今回は、耳コピーの繰り返しによる劣化・転訛説とは別の説を立ててみましょう。

 まず、平安初期の頃までは般若や鉢訥銘の「ハ」は[p]音で発音していたと考えられます。中国の僧から輸入した仏教なのですから、彼ら中国人の発音どおりに読誦するのが普通でしょう。仏教用語は漢音や呉音が多いですが、たしか『理趣経』は唐音で読誦されていたはずです。呉の時代は呉音で、唐の時代は唐音で仏教を輸入していたと思われます。私は藤堂明保『漢字語源辞典』を参考にしていますが、周秦漢から隋唐にかけての発音は、波[puar→pua]、般[puan→puanまたはbuan]、鉢[puat→puat]となっています。

 ところが、遣唐使が廃止されて国風文化が生まれると、漢字の発音もどんどん日本語化されていったと思われます。たとえば平仮名の「は」は、「波」の崩し字であり、もともとは[pa]と発音されていたのでしょうが、それが日本人の発音の変化によって、「は」を[hua]ないし[ha]と発音することになってくると、波・般・鉢の発音にも[ha]音を使うようになったと思われます。漢字を見て発音するのですから、「は」を[pa]ではなく[ha]と発音するようになると、漢字の読みもそれにつられて変化してしまいます。

 もはや[pa]音を表示するための漢字が無くなってしまったので、あとは耳だけが頼り。濁音・半濁音記号もだいぶ後になってからできたのではないでしょうか。したがって、ひとたび高僧が[ha]音で発音しはじめたら、「右へ倣え!」でもうおしまいです。


 サンスクリットの p が[ma]のような軟らかい音だろうという私の見解は、梵字(正確にはデーヴァナーガリーですが)の形からの推理した結論です。それについては後日新たにエントリー記事を書くつもりでいます。

投稿: 金剛居士 | 2008年7月12日 23時14分

度々すみません。
お説はよくわかりました。
私のいいたいこととほぼ同じなのですが、当方の書き方が悪かったようで、申し訳ありませんでした。
カタカナと寺院には密接な結びつきがあり、マントラの発音の変遷とカタカナという観点も考えてみると面白いですね。
また、素読などをすると四声点や連声が沢山出てきますので、こちらも面白いです(ちょっと話がずれますが)

最後に一つ。
理趣経は唐音ではなく漢音です。
唐音とは宋以降の音で、鎌倉時代以降に入ってきた読み方です。

投稿: 隆蓮房 | 2008年7月13日 12時00分

隆蓮房さん、ご指摘ありがとうございます。

>理趣経は唐音ではなく漢音です。

 確かにそうでしたね。昔どこかの本で読んだはずと思って記憶が曖昧なままコメントを書いてしまったのですが、出典をやっと見つけました。松長有慶『理趣経』(中公文庫.1992年)の72ページあたりが念頭にありました。15年も昔の記憶はあてになりませんね。(苦笑) 要約しますと、

奈良時代末に「漢字は漢音で読むべし」という勅令が出たこともあって、平安時代初期には、それまで呉音で伝わっていた仏典の読み方を、漢音に統一しようとした。

ということです。仏教が伝来した時代は中国南部の呉から輸入して呉音で経典を発音し、遣唐使によって唐の文化を吸収していった時代は、長安のある中国北部の発音である漢音で経典を読誦しようとした、という表現が適切だったかと思います。

 ということは、同一漢字が地方によって別の読まれ方(方言?)をされていたことになり、同一の漢訳を使いつつも中国国内ですでに地方訛りが始まっていたかもしれないことになります。そうするとやはりサンスクリット語の発音を基準にするのがいちばん安全ということになるのではないかと思います。


 私は思想と体験を探究するのが目的で、あまり歴史的な論題に深入りしたくないので、これくらいにさせていただこうと思います。

投稿: 金剛居士 | 2008年7月17日 06時24分

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