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2008年8月24日

『ダライ・ラマ 365日を生きる智慧』を読んで

 
 


ダライ・ラマ 365日を生きる智慧 新装版

 
 
 
 どんな金言が詰まっているのだろうと期待していた私としては、ちょっとがっかり。短い引用では、やはり断片的な内容になってしまう。しかしまあ、ダライラマ崇拝者ならば、ありがたいお言葉なのかもしれないし、まだ仏教修行をそんなにしていない人々にとっては、ある種の糧となるだろう。

 金言というのは、人生の深い体験を短い言葉で端的に表現したものである。だがダライラマの場合、講演という形で聴衆のレベルに合わせて彼らを少しでも仏教の真髄に近づけようと語っている。彼の言葉は、深い仏教的体験からひょいと自然に出てきた言葉なのではなく、いわば悟りへの方便として世俗的な言葉で案内しているにすぎないのである。だから私としては、方便としてうまく機能しているかという観点から見てしまう。

 いくつか引用してみたい。


   2月13日

 気だてがよくて魅力的であり、強くて健康なのに、若くして死んでしまう人々がいます。そうした人々は、実は、私たちに無常を教えてくれる師にほかならないのです。

 あまり親しい人ではない場合、たいていは残念がることで終わってしまう。また、それが自分の子どもや恋人など非常に親しい人の場合には、気も狂わんばかりになるだろう。しかし、その出来事を「諸行無常の真理の現われ」として把握し直すところから仏教が始まる。一方、自分が大嫌いだったり意地悪だったり愚劣で不細工だったりする人がなくなった場合には、人々は、「ざまあみろ」と思ったり、べつにどうとも感じなかったりする。亡くなった人に世間的な価値があるということが、どれだけ我々の諸行無常を深く感じさせてくれることか。人が仏教的に生きようとしている時には、世間的な価値でも大きな仏教的価値として存在しうるのである。
 
 
 
   11月30日

 人間は絶望的になると、神々に祈るようです。そして神々は絶望的になると、嘘をつきます。

 「苦しいときの神頼み」はダメ。(^^; ダライラマもなかなか皮肉屋さんである。
 
 
 
   7月17日

 災難は実は神仏の加護であると考えてください。というのは、私たちが天罰の意味について気づくきっかけとなるのが災難であり、徳のある行為のみを行わなければならないと確信するきっかけとなるからです。

 天罰という言葉を仏教が使っていいかどうか微妙なところだが、因果応報の意味にとるならば問題はない。自分の災難を、カルマの結果として捉え直すことが仏教修行の助けとなるだろう。
 
 
 
   2月6日

 苦しみは内面を強くします。また、苦しみを積極的に願うことで、その苦しみは消え去ります。

 とくに後半に関しては、良寛の言葉を思い出す。詳しく説明するのが面倒なので、たとえば「災難に逢う時節には逢うがよろしかろう」あたりをどうぞ。
 
 
 
   8月21日

 精神修行の道に入り、実践するときには、スポーツや遊びに夢中になった子どものような気持ちで、修行すべきです。遊びに夢中になった子どもは、飽くことを知りません。仏法の修行に臨む態度もそうあるべきです。

 これは最も重要な心得。このような態度がないと、仏教徒になったはいいが一向に修行が進まないという事態に陥る。仏道修行とは、いわば自分の悪い心との格闘競技であり、苦難の連続である。スポーツとして楽しむか、迫害されているとして煩悩という敵から逃げ回り、保護を求めて身を隠すか。日本の仏教は、身を隠して一安心してそれでおしまいになっている場合が多いように思われる。
 
 
 
   12月9日

 ふだん私は仏教修行者に向かって、次のように忠告しています――自分の導師の行為はすべてが崇高で気高いのだとはみなさないようにしなさい、と。
 導師たる者は、特に徳が高いことが要求されます。「先生 (グル) のなさったことですから、良いことです」などと単純に口にしてはいけません。決してです。おかしなことは、おかしいと認識すべきです。導師のおかしなことを批判するのが、やりがいのある仕事だと考える人が出てきてもいいくらいです。

 導師は常に正しいと見なされ導師が絶対化されると、その宗教は堕落していく。次に導師になる者が、それまでの導師の悪い側面をそのまま継承してしまうからである。絶対的な規準は仏法であり、導師はその案内人である。案内人はたまに道を間違える。
 
 
 
   7月23日

 グルすなわち導師は、自分の良くない振る舞いに責任があります。それに引きずり込まれないようにするのが弟子の責任です。非は師弟のどちら側にもあります。弟子が導師に従順すぎ、忠実でありすぎること、つまり盲目的な信頼が、非の一因です。そんなことをしていると必ず、グルたる人物を駄目にします。しかし勿論、非の一端は導師の側にもあります。十分な高潔さを欠いているために、その種の非難が起こるからです。

 盲目的な信者と絶対化された導師。この組み合わせの宗教団体は、堕落していくだろう。
 
 
 
   12月30日

 もし私が亡命したまま死んで、チベット人がダライ・ラマ制を続けたいと望むのならば、私の転生者は中国が支配している所には生まれないでしょう。

 そうだろうね。チベット人が自らの宗教的態度と世俗的権力との関わりについて反省し、ダライ・ラマを受け入れられる政治情勢が整うまでは、遠いところにおわす観音菩薩様として仰いでいるしかない。ということで、ダライ・ラマは日本にいるチベット人家族には転生しない。なぜなら、もし日本なんかに転生したら、日本の政治家が日中友好と称してその転生者を中国に引き渡してしまいかねないから。(苦笑)
 
 
 
 
 以上の引用が面白いと思ったら、この本は読んでみる価値がある。
 

 
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