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2008年9月20日

鎌田茂雄『般若心経講話』を読んで


鎌田茂雄『般若心経講話』(講談社学術文庫)

 内容をよく理解するためにはある程度の修行的感性を必要としているので、これは中級向きくらいの本である。

 この本は、私も以前読んだことのあるずいぶん古い本で、内容はほとんど忘れていたが、学生時代に経験した知的興奮のようなものが思い起こされた。

 鎌田茂雄の専攻は中国仏教史・華厳教学となっているが、出身は駒澤大学仏教学部であり、実際、この本は禅宗を中心において般若心経を解説している。この本は、般若心経の語句を逐一解説するというよりも、般若心経に書かれている空の境地がどのようなものかを伝えようとしている。さまざまな禅者の言葉を引用・解説しながら、できるだけ分かりやすく、しかも深く空の境地を明らかにするということを目標に構成されているように思われる。

 ときどき五次元世界とかスエデンボルグとかに言及して、ちょっと待ってくれと言いたい個所もあるにはあるが、これもまた日常的な意識では把握できない独特の世界があるのだということを言わんがために引き合いに出しているのだと考えて、大目に見たい。

 私としては、引用がとても気に入っている。よくもまあ、これだけいろいろなところからちょうどいい文言を引っ張って来るものだなあと感心する。そのあたりの雰囲気をしっかり味わった後に般若心経を読み直すと、般若心経の深みが感じられるのではないかと思う。


 例によって、また少し引用してみたい。

 まずは観自在菩薩の説明で、禅者の引用を鋏ながら「それは自己自身のことだ」と解説してしまう。その一つとして曹洞宗の天桂(てんけい)禅師『止啼銭(したいせん)』より以下のような引用をしている。

 観自在とは異人にあらず、汝、諸人是れなり。何をか観自在といふ。眼を開けば森羅万象ありありと現はれ、耳に通ずることは無量の音声間断なし。六根皆な是の如く十万無量(※十方の誤植か? 金剛居士註)の事、一事に対すれども一として見ぬこともなく、聞かぬこともなし。この心の自在なること言語の及ぶべきなし。さるによりて『華厳経』の中に十鏡の喩を以て説てある。其(その)喩は十方に懸(か)くるときに、九つの鏡が一つの鏡にうつる、其(その)鏡の内を見れば百千の鏡が見ゆる、しかれども少しも鏡を礙(さえぎ)ることなく、広くもならず狭くもならぬ。その如く人の心に日用百千万の事が移り来れども、心に事多しと思ふこともなく、目に見る中に声を聞き、舌に味ひ身に寒暖一度に来れども目の見し止むを待て耳に入る声の通ずるといふこともなく六根共に互に融通して礙ることなし。如是に観ずることの自在なる故に各人の自己を指して観自在菩薩といふなり。(前掲書 44~45頁)

 これを理解するためには、華厳経の十鏡の喩をよく知っている必要があるのだろうが、ここでその解説は省く。それでも、あらゆる事柄をあるがままに一挙に知覚してしまうような境地を言っているらしいことは、この引用のみからも容易に分かるだろう。それは観自在菩薩の般若波羅蜜多の境地であり、さらにそれが各人の自己の中に存在する(存在しうる)ということを天桂禅師は言いたいのである。

 臨済宗の抜隊得勝は、

モシコノ自己ノ観音ヲ信ゼズシテ、心ノ外ニ求メバ、ソノ人即(すなわ)チ家ヲワスルル長者子ナリ。(前掲書 43頁)

と言い、どこか遠から観音様がお出ましになるのを祈っているようでは、宝の持ち腐れだと暗示する。宝は彼岸にあるのではなく、今、ここ、その身にある。

 そしてまた、白隠禅師『毒語心経』を引用して、般若波羅蜜多の深浅についても端的に説明する。

空を求めて色を破する、之を浅と言ひ、
色を全ふして空を見る此(これ)を深と曰ふ。
若し色空を把(とらえ)て般若を談ぜば、
甕中(ようちゅう)の跛鼈(はべつ)、飛禽(ひきん)を逐(お)ふ。(前掲書 47頁)

 「モノの世界は空しい(だから彼岸へ逃れよう)。」というような消極的な悟りは浅く、「この世界の只中にあってその空しさをそのまま生ききる」ことが深い悟りなのであり、悲観的な精神で般若の何たるかを談ずるのは、まるで「甕(かめ)の中のびっこのスッポンが飛ぶ鳥を追いかけようとしている」ようなものだ、という意味である。

 色即是空というと、「この世の空しさ」のような悲観的なものとだけ結びつけられやすいが、実際にはそのようなニヒリズムを超えた肯定的・積極的な世界が展開する。

「色即是空」というと、すべてのものは空であって何もないと理解しやすい。空とみる真理(空諦)であって、宇宙の実相の一面の見方にすぎない。そこで空に執着していては本当の相(すがた)が見えないので、ただちに「空即是色」とやったのである。この「空即是色」を仏教では「真空妙有」という。真実の空の中には妙有が存在しなければならぬというのである。禅者はこれを「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」ともいう。何にもないところにこそ、無限のものを蔵することができるという。無一物(むいちもつ)の中に花あり月あり楼台(ろうだい)ありとなる。(前掲書 74頁)

 完全なる空を悟った無我の境地から、突然に真実世界が展開する。それを「真空妙有(真の空のなかに妙なるもの有り)」というわけだが、その生き生きとした世界は、無我の境地の中にこそある。

 このような境地を「無所住(住する所無し)」ともいうが、それを沢庵禅師が柳生但馬守に説いた話で説明するのがまた面白い。

心をどこにも置くなと説く。そうなれば我も空、打つ手も空、太刀も空、すべては空、すなわち無所住の境地に至る。自由自在ということをわれわれの身体の運動について考えてみよう。われわれの身体は二本の脚で地に接し、立つのも、坐るのも、行くのも、止まるのも、走るのもすべて自由自在で少しも停滞がない。この時、われわれの心はこのように運動する時、身体のどこにも住してはおらぬ。立とうと思えばたちまち立つ。その時心は立つということにとらわれているであろうか。人と談話をしながらも自由に立つことができるのは、われわれの心が時に応じて自由自在に動けるからである。しかし一旦、捻挫(ねんざ)などした場合はどうなるか。歩行するために心を脚に止めなければならなくなる。心は脚に住し、脚にすべての神経を執着させなければならなくなり、自由自在の運動などはまったく不可能になる。身体の運動というものは、どこにも心を住しないことによって自由となることが分かる。仏教で説く「無所住(むしょじゅう)」ということは、この身体運動の自由自在のように全心渾身(こんしん)を一体化して自由無碍(むげ)の境地を体得することにほかならない。(前掲書 124頁)

「捻挫したら肉体の障害で動かせないのだから、いくら無所住の境地になったって自在に動けるわけがないじゃないか。」というツッコミはさておいて、言わんとするところは、執着やこだわりがあるとそれだけ不自由になるということである。


 さあて、以上の引用で、禅宗における般若心経理解がぼんやりとだけでも見えてきただろうか? 空の理解は各宗派によって微妙に重点の置き所が違うだろうし、それを比較してみるのも面白いだろう。


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