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2009年1月17日

般若心経解説(11)空即是色は間違い?

~ シリーズ最初からよむ人はこちら ~ 

 
 
 
 『般若心経は間違い?』でアルボムッレ・スマナサーラ氏は、色即是空ではあっても空即是色は間違いだという。論旨は以下の通り。
 
 「1+1=2」なら「2=1+1」と言えるし、「A=B」なら「B=A」とは言える。しかし、「リンゴは果物である」が、「したがって、果物はリンゴである」とは言えない。「人は死ぬべきものである」とは言えるが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」とは言えない。これと同様に、「肉体は空である、実体がない」とは言えるが、「したがって、空は肉体である」とは言えない。
 
 ちょっと考えただけでも、空であるものは色だけではなく、たとえば空即是受などもありうるのだから、西洋論理的に正しくないとも言える。
 
 だがこの場合、般若心経はそこまで形式論理を厳密に使っていないのかもしれない。色即是空では「色(a)であるならば、必ず空性(b)である」(論理的にはa⊆b)を意味し、空即是色では「空性(b)であるときに(のみ)色(a)がある」(論理的にはb⊇a)を意味しているのかもしれない。スマナサーラ氏は前者の論理形式だけで押し通して矛盾を指摘している。
 
 
 しかし、別の本文解釈も可能だろう。
 
 サンスクリットの般若経の“rUpaM zUnyatA zUnyataiva rUpam”(サンスクリット表記法は こちら を参照)は、「色は空性であり、まさに(この)空性(であるもの)が色である。」とも読めそうである。(-ivaは、「まさにこれであって、他のものではない」を意味する eva が直前の単語と結合して変化した形) すなわち「色は空性である」と「空性は色である」とは対等な関係の主張命題ではなく、後半の空性は、前半の内容を含んでそれに限定された空性であると解釈することも可能である。
 
 また、“yad rUpaM sA zUnyatA yA zUnyatA tad rUpam”すなわち「色であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが色である。」という一節は、さらに別の解釈が出来る。すなわち、「Ⅹ=aの時そのX=bであり、X=bの時そのⅩ=aである。」という論理を展開していると言える。つまり、aとbの包含関係を論じているのではなくて、指定されたXがaならばbでもあり、指定されたXがbならばaでもあるということを提示したと言える。
 
 この一節の前半は、「Xが色である時そのXは空性である」だから理解しやすい。一方、後半は「Xが空性である時そのXは色である」となるので分かりにくいだろう。だが、ここでは何らかの対象Xを第一に指定して話を始めている。そのXは、種明かしをすれば概念的には色に相当するものなのだから、必然的に成立しなければならない。私の想像では、「Xが空性でない時そのXは色でない(そんなものは存在しない)」という含意があったのではないかと思う。(以下、ちょっと話がややこしくなる。)
 
 ここで、「Xが色である時そのXは空性である」という論理命題は、「Xが色でない時」に関しては何も言っていない。その場合、Xは空性でも空性でなくてもいい。(これは、空性か否かはこの命題のみからは未確定という意味である。) つまり、「まずは話を色に限定しよう。そして、その場合は空性である。」ということである。
 
 次に、「Xが空性である時そのXは色である」という論理命題もまた、論理形式上では「Xが空性でない時」に関しては何も言っていないので、空性でない場合はXは色であるのかもしれないし、Xは色でない(Xに色は存在しない)のかもしれない。しかし、この場合は既に「Xが色である時そのXは空性である」とされているのだから、「Xが空性でない時そのXは色である」は成立しない。そして、「Xが空性でない時そのXは色でない(Xに色は存在しない)」だけが残るだろう。
 
 ちなみに、「もしXが空性でない(縁起的存在ではない)ならば、Xは成立しえない。」という命題を多方面から主張しようとしたのが『中論』の龍樹(ナーガールジュナ)であった。
 
 
 空性(シューニャター,zUnyatA)は、「般若心経解説(8)空性の意味とその深浅」で指摘したように自性空(スヴァバーヴァ・シューニャ,svabhAva zUnya)の意味である。もう少し詳しくいうと、「そこに自性が無いこと」を意味する。
 
 すると、「色であるとは、《そこ》に自性が無いことであり、まさに《そこ》に自性が無いことが色であるということである。」となって、《そこ》が色を指しているのは文脈上まったく明らかである。この場合は、「色という概念には、《そこ》(=色)には恒常不変の実体が無いということが含まれている。まさに《そこ》(=色)には恒常不変の実体が無いということが含まれているのが、色という概念である。」という意味になろう。
 
 「色即是空」の“色”は、自性がある(と構想された)色である。すなわち、世俗の分別にまみれた色(という概念)である。しかし、「空即是色」の“色”は自性のない(真実の)色である。すなわち、色は色や形として意識に現われてきたものであり、概念的に把握された物質ではない。両者で“色”の意味が微妙に違っているという点を見逃してはならない。
 
 
 一方、「色であるところのもの、“それ”は、《そこ》には自性がないのであり、《そこ》に自性がないところのもの、“それ”は、色である。」の場合は、《そこ》は色ではなく「~ところのもの」という未知の対象“それ”である。種を明かせば“それ”と指し示された真如(の一部)がそもそも色であり空性だったのだから、この一節に関して「空性は色でないこともある。」など批判するのは、経文の文意を見失っているとしか言いようがない。
 
 空性というのは、それ自身としての具体的な意味内容をもっていない。常に何かの存在をって「《そこ》に自性が無い」と言ったときにのみ具体的な意味内容を獲得する。だが、それは何らかの対象の意味内容の一部――それが恒常不変の性質をもつという側面――を否定するのだから、空性は常に何らかの対象に寄生して具体的に存在すると言えよう。「空性は……」と単に言っただけでは全く空虚であり、「色の空性」とか「受の空性」などのような意味が言外に含まれてはじめて文意をなすのである。したがって、「空即是~」という場合には、必ず前に何か言及があって空(性)の意味が限定されていると考えてもよいのではなかろうか。
 
 
 
 以上のように、後半の句は前半の句とリンクさせて意味を理解するのが正しい。色即是空を体得しているほとんどの人はこれを無意識的に知っているはずだが、論理的に間違いだと言われると反論できなくなってしまう。大乗仏教徒はもっと論理的に経文を分析・解釈し、もっと意識的に理解する努力をすべきではないかと思う。
 
 
 
 
 

 
 
 
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コメント

はじめまして
漢訳から下記のように読み下しましたが
サンスクリット原文から直接みた場合はどうでしょうか
ご意見をお聞かせください よろしくお願い致します

色の性はこれ空なり 空とはこの色の性なり
色は不異にして空なり 空とは色の不異なり
色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり

投稿: 小寒子 | 2009年2月26日 20時50分

 コメントありがとうございます。ご質問の件ですが、結論から申しますと、この読み方はサンスクリットの経文とは逐語的にはあまり一致していないように思われます。

★「色の性はこれ空なり 空とはこの色の性なり」について。

 空性(シューニャター)は、空(シューニャ)という形容詞と、抽象名詞を作る接尾辞のターとから成る合成語であり、色(ルーパ)のほうはそれ単独で使われていますから、「色の性」という意味はサンスクリットではどこにも出てきません。


★「色は不異にして空なり 空とは色の不異なり」について。

 まず、二つの句が対称的に訳されていないところが問題です。また、サンスクリットの経文では、「Aからは異なっていない、Bは。」という構文になります。そちらのブログ記事の解説のように、色の各々が相依相関関係によって成立しているという縁起を言っているのではないと思われます。ただし、ここの「異なっている」は「別々である」をも意味していると思われますので、色と空とが相依相関関係によって成立しているという読みならば可能です。


★「色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり」について。

 この「即ち」を「真如に即している状態」と解すれば、意味としては正しいと思いますが、やはり意訳になるでしょう。サンスクリットの経文では「AであるXはBで(も)ある」という構文になります。私の解釈も意訳ですが、「色である真如は空で(も)あり、(その)空である真如は色で(も)ある。」となります。


 ただし、この読み下しで考えておられることは、般若心経の思想に即していると思われますので、一つの解釈としては十分に成立するとは思います。

投稿: 金剛居士 | 2009年2月27日 19時04分

こんにちは
早速にコメントを頂き有り難うございました
サンスクリットの経文と一致しないというのは辛いですが
一つの解釈または意訳として考えていきたいと思います
有り難うございました
では又よろしくお願い致します

投稿: 小寒子 | 2009年2月27日 23時09分

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