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2009年4月13日

『唯識初歩』を読んで

 けっこう色々な宗派の教学に興味をもつ私だが、唯識仏教は前々から好きで、最近また関連本を読み返してみようかと思って、松久保秀胤『唯識初歩』を読んでみた。“初歩”という題名にはなっているが、理屈っぽくてとても最初に読むべき本ではなさそうである。5冊めくらいに読むが適当かもしれない。私のランクづけでは初中級者向きであり、一通りの基礎知識を得てから読んだ方がいい。最初に読むとしたら、太田久紀『仏教の深層心理』あたりだろうか。その他の本に関しては「おすすめ仏教書 唯識思想」を参考になさってください。


 この本は、五重唯識観にそって唯識仏教の全体を説明するという構成になっている。捨濫留純しゃらんるじゅん唯識観、隠劣顕勝 おんれつけんしょう唯識観、摂末帰本しょうまつきぼん唯識観、遣虚存実けん こ ぞんじつ唯識観、遣相 証性 けんそうしょうしょう唯識観の順に解説されていて、どこから登っても同じ富士山(の山頂にたどりつく)という譬喩で、いずれの唯識観から始めてもよいという見解である。説明の順番としては、これがわかりやすいのかもしれない。

 だが、修行として考えた場合、やはり『大乗法苑義林章』巻第一之末の順番がいいのではなかろうか。ちなみに、ここでは「~唯識観」ではなく「~識」と呼ばれている。

 最初の遣虚存実識は、遍計所執性・依他起性・円成実性のうち最初のものを捨てて後二者を取るという修行である。まずは妄念を捨てて“有るものをあるがままに(すなわち空として)観る”ことが基本である。これは、唯識百法(唯識仏教における百の存在のカテゴリー)以外を非有としてすべて除くという意味があるようだ。

 第二の捨濫留純識は、認識したものを外界の何かとは見ずに自己の心に映し出されたものとして把握する修行である。すべては「私にとってはこう認識している世界」なのである。

 第三の摂末帰本識は、心の中においてさえも「私」が「何か(のイメージ)」を認識するという主客二元論を捨てて、認識しているその現場、その全体性に帰入していく修行である。私が何かの対象(のイメージ)を創り出し、その対象がまた私のありようを規定し、それによって私がさらに特定の方向の対象を創り出すことになる。対象と私はいつも裏表の関係にあるのだから、その全体を一挙に把握する必要がある。

 第四の隠劣顕勝識は、心所を否定して心王のみであると観想する修行である。心の中核部分は善でも悪でもない。ところが心所(心所有法といって、心王に所属する働き)には煩悩なども多く、それらを排除した心で“汚れなくあるがままに観る”ことが目指されていると言えよう。遣虚存実識で存在を見るときには、どうしても煩悩の色眼鏡が多少かかってしまっているのではあるまいか。(そのへんの違いは、私はまだ断言できない。)

 最後の遣相証性識では、もはや何かの相を観察しようという意識が起こらず、ただ存在が空であることだけを観照している修行である。ここで円成実性のみとなり、唯識が完成される。

 修行の観点からみた以上の説明は『唯識初歩』の解説内容ではなく私の見解だが、そんなことも考えてみると唯識理解に役立つのではなかろうか。


 私がこの本を後回しにすべきと考えるのは、喩えが誤解されてしまう危険性があるからでもある。ある程度の基礎知識を持っているならばその喩えを適切に把握していけるのだが、まったく何も知らないでこの喩えで唯識の基礎概念のイメージを形成しようとすると、かえって唯識が理解できなくなる可能性がある。煩瑣な概念体系かもしれないが、こつこつと覚えていくのが結局は早道なのかもしれない。


 
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