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2009年5月19日

洞上五位頌

 このところ洞山良价の『宝鏡三昧』について記事を書こうかと思って何冊か読んでいたのだが、その前に同じ作者の洞上五位頌の説明をしておいたほうがよさそうなので、まずはこの解説から始めたい。

 何冊か本にあたってみたところ、著者によって、または諸注釈によって語句の解釈はもちろん全体としての捉え方も微妙に違っているようだ。そこでこの解説では、私の解釈や見解を主として述べるとともに、違う解釈や見解も適宜補足していきたい。テキストは『世界古典文学全集36B 禅家語録2』(筑摩書房)を利用したが、読み下し文は私の見解にしたがって一部改変してある。


 五位とは、正中偏、偏中正、正中来、兼中至(または偏中至)、兼中到の五つの境位であり、この頌は当時流行した「五更転」のリズム(三・七・七・七)に合わせて作られている。ほぼこの順序で修行の境位が漸進的に高まっていくと言えるが、平田高士は「この五位は畢竟一個の禅体験を五方面から仮に説示したにすぎない」(『講座 禅』第六巻 筑摩書房.72頁)と見なしている。
 
 
 

正中偏
三更初夜月明前 (三更初夜月明の前)
勿怪相逢不相識 (怪しむなかれ 相い逢って 相い識らず)
隠隠猶懐旧日妍 (隠隠として猶お旧日の妍を懐く)

 三更とは、およそ現在の午後11時または午前零時からの2時間をいう。初夜は、現在の午後8時ごろ。月明の前とは、満月や下弦の月などが出る前。この暗闇は、第一に無明に喩えられる。しかしながら同時に、暗闇では何も区別ができないゆえに無差別平等をも暗示する。人が深い眠りにあるときには彼から苦しみが消え去っているように、この最初の段階も無意識であるがゆえに覚っているかのようである。

 この時は真っ暗で、お互いに逢っても尋ねなければ相手が誰か判らない。修行の文脈では、ここで逢うのはもちろん自分自身である。無意識の中にあると、たとえ自分自身に逢っていてもそれが自分だとは思わない。

 心の中では(すなわち隠れて密かに思うには)別のものを自分自身と見ているのだ。妍の訓読みは「うつくしい」だから、まだ昨日の美しい姿を心の中に懐いているという意味になるだろう。次に“老婆”が出てくるのだから、ここで何が言いたいのかお判りですね。(^^;


 正中偏は、普遍の中の個別、平等の中の差別、理の中の事、空の中の色、勝義の中の世俗……。人はすでに最初から真実の中にあるのだが、まだその真実が覚知されていない段階。というより、この段階では個別の事象さえもしっかりとは見えていない。まだ何も見ていないから、無意識のうちに真実に休らっているのだ。個別の姿を前にするとたちまち迷いの世界に落ちてしまう。

 これは本覚とも言える。人はもともと覚っているのだが、それに気づいてはいない。他方、その言葉を曲解して修行をしないのもいけない。本覚ないし自性清浄を知ったとき、自分は悟りの心が芥子粒ほどもない煩悩の塊だ、と気づく必要もある。「自性清浄 客塵煩悩」と言われるが、自分は自性のほうではなく客塵のほうだと認識すべきである。悟りの心を形成する原材料は最初から揃っている。だが、すべてはまだ混沌として鉱石のごとくである。
 
 
 

偏中正
失暁老婆逢古鏡 (失暁の老婆古鏡に逢う)
分明覿面更無真 (分明覿面てきめんなるも更に真無し)
休更迷頭還認影 (更に頭に迷って還た影を認むることをやめよ)

 失暁は盲目を意味する。それはずっと夜中のままで物が見えない(真実を認められない)ことを暗示している。つまりこの老婆は無明の闇に沈んだままなのである。そういう老婆が真実を映す鏡、すわなち仏性に出逢う。鏡は磨かれて自己を全く空しくするからこそ他を如実に映し出せる。かくのごとく空なる心は正しく対象を映し出す。

 覿面は、まのあたりに見ることだから、はっきりと明らかに自分の姿をまのあたりにして、さらに他に真実はない。(「更」を「別」につくるテキストもある。) このキビシイ現実! しかしこの老婆は盲目だから、自らのうちに仏性として真実を映し出す働きがあるのに、それを見ようとはしないようだ。

 そこで一喝。さらに迷って頭であれこれ考えて昔の自分の面影を求めるのはやめよ、というキビシイお達しである。(^^; あるいは、眼前に明確な鏡像があるのに、黒い自分の影を見ようとしているのかもしれない。黒い影のほうがそこに昔日の自分の美しき姿を重ねられるから、老婆にとっては心地よいに違いない。たまたま真実が見えてしまっても、多くの人々はやはり影のほうに向いてしまいがちだ。

 これは『首楞厳経』巻四に出ている演若達多えんにゃだった の喩え話を下敷きにしているようだ。

演若達多、忽ちに晨朝に於いて、鏡を以て面を照し、鏡中の頭の眉目見るべきを愛するに、己が頭に面目を見ざることを瞋責しんせきして、以て魑魅なりと為し、ゆえ無くして狂走す。
これは、鏡中の自分の頭に眉や目があっても顔の輪郭がないと言っている騒いでいるのだろう。たしかに目だけの顔なら妖怪変化である。(笑) しかし、覗いた鏡が小さかったのかもしれない。真実はそのほんの一部だけしか見えてこない場合も多い。鏡中の自分の顔を覗き込んで目尻の小皺を見つけて、「妖怪ババアになってしまった!」と狂走する女性も・・・(以下略)。ヾ(u_u; オイオイ ま、自分の真実の姿を直視すると、多かれ少なかれそういう反応を示すものである。(苦笑)

 この演若達多の喩え話は、如来蔵に関連して妄想の出所を明らかにする説法のなかで提示されたものである。したがって、正中偏を本覚、偏中正を始覚と位置づけてもよかろう。たとえ見る者が自分の姿を見ようとしなくても、古鏡は変わることなく真実を映し出し続けている。明るくなれば鏡に映る姿は誰にでも見えるのだ。ただ無明の闇に覆われた盲目の老婆にはそれが見えずに妄想の影を追っている。汝はすでに一部なりとも真実の姿を見たのだから、これ以上影を追うことなく真実の姿を直視せよ――これが偏中正の境位だと言えよう。

 しかし、ここは別の解釈もできる。「影」を鏡に映っている自分の姿と見なせば、そうやって現在の自分の姿にも囚われてしまうことを避けよ、という意味にもなる。「昔はよかった」と「今はダメだ」は、両方とも頭で考えていることである。そんな自己イメージに囚われていてはならない。まさにそのイメージをつくり出している主体へ戻ってくるべきである。


 偏中正は、個別の中の普遍、差別の中の平等、事の中の理、色の中の空、世俗の中の勝義……。諸行無常・諸法無我の理が、古鏡に映った個別の事柄に現われているのである。そして、変化してやまない個々の事柄を現われるがままに受け取るのが禅の基本である。ただただ受け取ることによって空の理を体得していく。
 
 
 

正中来
無中有路隔塵埃 (無中にみち有り 塵埃を隔つ)
但能不触当今諱 (但だ能く当今のいみなに触れず)
也勝前朝断舌才 (た前朝の断舌だんぜつの才にすぐれり)

 無とは、空、勝義、涅槃の世界である。そして、そこからこの娑婆世界にやって来る路がある。すでに無となって一切の煩悩を断じた場所からやって来るのだから、その人は煩悩の塵埃からは離れている。

 当今の諱とは、在位の天子の名である。そして、「当今の諱に触れず」は、正位(すなわち禅的普遍)に腰をおろしてしまわないという意味に解釈されている。しかし私としては、世俗の名利には触れないという意味ではないかと考える。あらゆる者を帰順させ、あらゆる者に恩恵を与えても、自らを王者とはしない。その本質は無我なのだから、「偉大なる我あり」という世俗の価値には触れることがない。

 しかも、無言無説にしてあらゆる者を説き伏せてしまう。それは最も雄弁な者にも勝る。

 断舌才:隋代の李知章は非常に雄弁家で、彼が話をすると他の人たちは舌を巻いたので、断舌才という異名をとったと言われている。断舌という句で「無言無説の正位に証を取ってしまうこと」を表わすと言われている。ここでは大悲の行に働き出るゆえに断舌の才に勝れていると言われるのである。(『世界古典文学全集36B 禅家語録2』筑摩書房)
この「断舌」の解釈は、完全に寂静の世界に休らってしまう小乗の涅槃を意味している。しかし、「前朝の」があるから、やはり李知章を指していると見なしたほうが自然である。言葉の力を超えたものは、無の中からやって来る。雄弁家の言葉は聴衆の心を喚起するだろうが、無、空、勝義からやって来たものは、その心をもっと強力に動かすことができる。


 正中来は、涅槃に住せずにこの世に還って来る段階を意味する。これこそが真の慈悲行である。可哀相だから助けてあげようというのは、必ずしも慈悲行ではない。空の理が個別的事象にやって来るのが正中来なのだから、個別的事象にこだわる心をいつまでも取り払わないのは、必ずしも慈悲行とは言えないのだ。人々からこだわりの足かせを解いてやるのが慈悲行であり、菩薩行である。
 
 
 

兼中至
両刃交鋒不須避 (両刃のほこさきに交わるをすべからく避けざれ)
好手猶如火裏蓮 (好手、なお火のうちの蓮の如し)
宛然自有冲天気 (宛然、おのずから冲天ちゅうてんの気有り)

 「両刃」とは、個別と普遍、差別と平等、事と理、色と空、世俗と勝義……。これら両者はセットになっている。そして、両側の刃が鋒先で一つに交わるように、両者が一体となる境地がある。(一般には鋒と鋒とを交えるという解釈をしているようだが、私はそうはとらない。) この境地は、色即是空、生死即涅槃などと言われている。両者が一体となることを避けるべき理由はない。色を捨てなければ空になれないとか、生死を捨てなければ涅槃に入れないということばない。

 ここで「火裏蓮」とは無染汚の蓮華の意で、真の好手は好手にすら囚われない無垢のもの、という意味になるようだ。(cf.東慶寺) 物としての蓮華は火にくべれば燃えてしまうが、仏教でいう蓮華は真如や慈悲を意味するのであって、火中の蓮華はいわば智慧の火によって煩悩が付着しない状態を意味する。好手は、色にとっての空、空にとっての色など相対するものを指すが、悟りの中にあるとき、それらは相手を自分の対立物とは見ない。色は色、空は空であり、また色と空は絶対的に異なるが、色あっての空、空あっての色でもある。

 宛然とは、あたかも、さながらという意味。冲天とは、高く天に上るの意。したがってこの句は、さながら天を衝くほどの気高さをもっている、の意味になる。いわば最低のものと最高のものが交わってしまうのだから、その全体の姿は、地と天を繋いだかのような勢いをもつだろう。


 兼中至は、色と空などの両者を兼ねそなえた中で彼岸へ至る、という意味になろう。この境地は無住処涅槃といっていい。だが、もう一つ先に究極の境地がある。

 ちなみに、これを偏中至とするテキストもあるが、その場合には個別的事象の中で彼岸へ至るというような意味になるのだろうし、私としては順番を変えて偏中至は正中来の前に持っていきたい。偏中正の段階は、個別的事象の中に空を見出す努力をしているが、まだ徹底できずにいる。しかしこの修行が完全なものに至ったならば、それは色即是空のように事と理が紙の表裏のように完全に一枚になるのである。そして、そのようなところから空即是色としての正中来の境位が生まれてくる。
 
 
 

兼中到
不堕有無誰敢和 (有無に堕せず 誰か敢て和せん)
人人尽欲出常流 (人人ことごと常流じょうるを出でんと欲す)
折合還帰炭裏坐 (折合せつごう、還って炭裏たんりに帰して坐す)

 もはや「有と無」のような二元対立には堕することがない。そんな究極の姿に誰が敢えて合わせようとするだろうか。合わせようにもその対象が見つからない。いや、むしろ向こうのほうから変幻自在に和してくるのだ。

 常流とは常に流転する世界のことだろう。人々はことごとくこの有為転変の世界から脱しようと一生懸命修行する。

 だが、結局は還って来てもとの炉辺に坐すことになる。折合は「つまるところ」の意。修行の最後には一生懸命さえもなくなり、ただただ最初から何もなかったかのごとくに肩の力を抜いてあるがままの生活をしていくことになる。

 兼中到は、もはや修行者の気迫すら消え去っている。「あるがまま!」と気張っているように見えるうちは、まだ悟りの最終段階ではない。本当に彼岸に到達した人は、あまりにも平凡な中に紛れている。それを凡人・俗人と見間違えるのは、見る者が俗人の心しか持っていないからである。“事”から目を離さずに“理”を深く究めた賢者ならば、「こいつ只者ではない」とその非凡さをきっと見抜くことだろう。
 
 
 
 
 
 
 さて、こうやって見てくると「洞上五位頌」は「十牛図」にも匹敵するほどの修行案内だと思えてきた。五段階と十段階では描写のきめ細かさにおいて十牛図にはかなわないが、仏道修行の基本的な考え方はこの五つで十分に把握できる。個々の仏教用語について解説していくときりがないので、この記事では最低限の語句解説と修行的位置づけの解説とに限定したが、おそらくどの本やネット記事よりも解りやすい解説になったのではないかと自負している。これでも難解だと思うようならばまだ基本的知識の学習が不十分なので、各自で研鑽していただきたい。
 
 
 
 



 
 
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