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2009年6月 5日

『参同契』解説(1)

 
 
 このブログで『宝鏡三昧』の解説記事を書こうと思い立ち、その前に必要かと思って『洞上五位頌』を最初に論じ、さてこれで『宝鏡三昧』に行けるかと思ったら、やっぱり『参同契』の解説を先にやっておこうなどと思ってしまった。まあ、『参同契』は石頭希遷せきとう きせんの著作であり、曹洞宗では最も重要な経典のひとつであり、その真義をより高く祖述したのが『宝鏡三昧』と言われているから、あらかじめこれを解説しておいて損はあるまい。
 
 
 さて、『参同契さんどうかい』とは、参差しんし (=諸現象)と同一(=空性)に契合している、という意味である。参差とは、もともとは「長短の等しくないさま。そろわないさま。」「入りまじるさま。入り組むさま。」「くいちがっているさま。矛盾しているさま。」といった意味である。諸物、諸事、諸現象は見かけ上はじつにさまざまであり、また入り組んで成立しており、ときに矛盾している。一方、同一はそれらの諸物などに通底する同一の本質を意味する。仏教的見地からそれを端的に言えば、縁起ないし空性ということになろう。そして、それらがうまく合わさるのが契合。すると、参同契とは「色即是空 空即是色」や華厳思想でいう事理無礙にほかならない。
 
 これだけでも頭に入れて参同契を読んでいけば、その伝えんとする意味に容易に近づけるようになるだろう。なお、今回の参同契は四回に分けて解説する。
 
 
 

竺土大仙心 東西密相附
 竺土大仙ちくど だいせんしん 東西密とうざいみつ相附あいふ 

 竺土はインド。大仙は偉大な仙人で、釈迦牟尼のこと。心はこの場合には「核心」の意味にとりたい。もちろん精神的な核心部分という理解でよい。東西は中国とインド。これは禅宗の祖である菩提達磨が第二祖の慧可に法を伝えたことを意味する。そして、この「密に」が最も重要な言葉で、あえて解釈すれば「無我ないし空において」の意味である。
 
 
 
人根有利鈍 道無南北祖
 人根にんこんに利鈍あり どうに南北の祖なし

 第五祖の忍弘のあとは、禅宗の流れは、鈍根(劣った素質)の者を対象とした漸悟の宗風をもつ神秀の北方禅と、利根(優れたい素質)の者を対象とした頓悟の宗風をもつ慧能の南方禅とに分かれる。しかし、利根・鈍根やそこから生ずる方法の違いは人間の側にあるのであって、仏道すなわち空の実践には南祖も北祖もない。ここには、各地方・各宗派によって違いのある具体的な修行方法や修行過程よりも、もっと本質的な部分に目を向けるべきであるという含意がある。
 
 ところで、この部分に関しては、五祖忍弘が六祖慧能に対して「嶺南人無仏性」と言ったエピソードが提唱などで言及される。そして、このエピソードは『正法眼蔵』「仏性」でも取り上げられている。(それに関しては「正法眼蔵 5」が多少は参考になろう。)
 
 道元の意図とは微妙にズレてしまうかもしれないが、私としては以下のように解しておきたい。「お前は何処から来た?」と問われて、「嶺南(すなわち中国南方)から来ました。」と答えるのは常識的である。だが、「私は作仏したい(仏陀になりたい)」と言ったならば、事は常識の範囲を越えてしまう。解説のためにあえて言葉を使って余計な応答してしまうと、「作仏したいのなら、お前は嶺南からではなく、空・無我からやって来ているのだよ。いったい誰が仏をすのだね?」ということになろう。だが、五祖忍弘はそんなことまで言わない。「嶺南人無仏性」とだけ答える。これは、「嶺南人よ、無が仏性である。」とも解釈できそうだ。あるいは、「自分は嶺南の人だ(または一般に、自分は○○人だ)と思っている分別的・反省的人間の中には仏性は無いぞ。」という意味だとも解せるだろう。仏性は、そんな自己規定を離れたところにある。禅では「父母未生以前の本来の面目」ということが言われる。確かに肉体は父母から生じたかもしれない。しかし、そんな自己規定をする心のあり方では悟りは開けない。もっと自己の根源に立ち返らなければならない。
 
 人格の根底にある空・無我すなわち「道」は、言葉では伝えられないがゆえに「密に」伝えられる。それゆえ禅は、徹底した体験主義になる。
 
 
 
霊源明皓潔 支派暗流注
 霊源みょう皓潔こうけつたり 支派暗に流注るちゅう

 「霊源」は魂の根源、あるいは人格の根源とでも言おうか。もちろんそれを追究すれば、無我や空に至る。「明」は「妙」とする解説もあるが、次の「暗」との対照で「明」としておきたい。「皓」を「皎」と作る場合もあるが、いずれも月が白く光るさまを表わす。「流注」は流れ注ぐの意で、変じ動じて絶え間がないこととされる。
 
 心の根源と言っても存在の根源と言ってもよいが、禅定が深まってくると心は晴々と明るくさっぱりしてきて、それと同時に世界もそのように見えてくる。心の根源に立っているときは、物事がはっきり見えていて動じないのである。ところが、そのような心の根源から離れると、思いはあちらこちらの対象に流れ込み、心が細かく分かれて統一性がなくなり、目が晦まされる。
 
 
 
執事元是迷 契理亦非悟
 しゅうするももとこれ迷い 理にかなうも亦さとりにあらず

 「事」は個々の物事であり、ここでは枝派を受けている。「執する」は固執するの意味。私としては、ここは「事に固執する元々は迷いである」という意味に解釈したい。また、事と対比されているからここの「理に契う」は、空ないし無我の理に(たまたま)合致するの意味に解したい。その理たるや、言葉になってしまった理。本来の空ではない。たとえば、般若心経の言葉は説明できても悟っているとは限らないようなものである。
 
 「理に契う」については別の解釈もある。それは、一切を空じたままであっても、それは禅の悟りではないという解釈である。般若心経の言葉で言えば、色即是空に留まっているのは未だ完全な悟りではなく、空即是色として、空を基としながらも物事の世界に立ち戻るのが本当の悟りである。
 
 
 
門門一切境 回互不回互
 門門もんもん一切のきょう 回互えご不回互ふえご

 「門門」とは、各々の感覚器官。それらが捉える対象を「境」という。「回互と不回互」は、相依(相互依存)と別々を意味する。ここでは感覚器官とその対象とが相依であり、かつ別々であることを意味するが、相依関係は自他・主客のみならず夫婦・親子・師弟などを考えるとわかりやすい。互いに相手があってこそ自分がそれとして存在するが、相手がなくても自分の存在が全く無くなるわけではない。『正法眼蔵』「坐禅箴」でも回互と不回互を解説しているが、こちらでは、縁(すなわち対象)なくして照らすという不回互に言及している。
 
 
 
回而更相渉 不爾依位住
 してさらに相渉あいわたる しからざればくらいによって住す

 「回して」は、相依関係が成立していること。「さらに相渉る」とは、その相依関係が発展することである。発展しなければ、その相依関係は同じ性質のまま留まる。それを「位に住する」という。
 
 「馬鹿を相手にしているとこっちまで馬鹿になる」という言い回しがあるが、これも(馬鹿の)位に留まってしまう好例と言えよう。こちらの見方や対応のしかたが変わらないと、相手の状態も変わらない。それは逆もまた然りで、相手が変わらないとこっちも変わりようがないことも多い。そこで、感情に引きずられて相手と同じレベルにまで落ちてしまう。「向こうがこう言ったからこっちはこう反応する」というこれまでの“持ち札”では、この膠着状態からは脱け出せない。回互だけでは変化無し、不回互といって単に関わらないだけでは、再び関わったときには元の木阿弥になる。
 
 しかしながら、そこをあえて不回互の状態から別の見方、別の関わり方をする。すると、相手が変わる場合もある。馬鹿も馬鹿なりに進化するということだろうが、それ以上に重要なのは、こちらの関わり方が変化することで相手に対するイメージや感情もまた変化するという側面である。相手が客観的にまったく変化しなくても、こちらのイメージや感情が変化すれば、そのイメージや感情に囚われていた心理状態からは脱することができる。解脱とは、そのような自分自身の心に囚われている状態から脱することである。
 
 
〔つづく〕

 
 
 


 
  
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