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2009年9月14日

『泥と蓮 白隠禅師を読む』を読んで

 白隠禅師は、日本の臨済宗の中興の祖と言われる。臨済宗には栄西をはじめ中国から来日した祖師たちの流派がいろいろとあったが、それらの法統はみな衰退しきってしまい、現在まで残っているのは白隠禅師の法統のみだという。

 それだけに臨済宗の中では白隠禅師はかなり高く評価されているようだが、どのような教えだったのか私にはよく分からない。まあ、師弟の個人的関係の中での教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏の世界なのだから、その本質的部分を一般化して解説するのには無理があると言えるだろう。しかしながら、かりに読者が白隠禅師の指す月そのもの(←真如の喩え)を見ることができなくても、その指さしている対象が月らしいということまでなら私でも言葉で説明できるのではあるまいか。

 私としては白隠をそんなに高く評価していない(というかどうしてそれだけ称揚されるのかよく分からない)のだが、「隻手音声」について知りたかったのでこの本を読んでみた。この本は初・中級者向きであり、おすすめ度★★★☆☆くらいだろう。

 どうもこの著者はそんなに深く悟ってはいないみたいだ。(^^ゞ だから、白隠の本質がどこまで見えているのか心もとないが、この本では白隠の著作(『坐禅和讃』『毒語心経』『隻手音声』)の引用と現代語訳と簡単な解説とがなされているので、少なくとも著作に現われたかぎりでの白隠の考えは把握できると思う。

 『坐禅和讃』は、なかなかいいことが書かれているので、そのうち私も解説記事を書きたいくらいである。他の解説書も参照しながらじっくり読んでみる価値がある。

 『毒語心経』は、禅の悟りを開いた人の自由闊達な解説であり、悟りの境地がちらっと垣間見られるかもしれないが、一般的な般若心経理解にはほとんど役立たない。(笑) だから、これは斜め読みすべきものかもしれない。

 『隻手音声』については、ここで少し白隠の著作を引用しながら解説していこうと思う。原文で解りにくい人は、この本の現代語訳を読んでもらいたい。ちなみに、『隻手音声』は『藪柑子』とほぼ同文である。

 隻手音声とは、「両手を合わせるとポンと音がするが、では片手(隻手)ではどんな音がするか。隻手の音声を聞け。」という公案である。これは入門者が最初に提示される公案であり、何年かかっても通れない修行僧もいるが、答えは「無」である。答えをバラしちゃっていいのかね。(笑)

 ま、私が言ったのは、「老師(禅の師匠)が指さしているのは“無”である。」という解説ないし状況説明である。ところが、修行僧は直接に「無」を見なければ悟ったことにはならない。概念ないし観念としての“無”ではなく、「無」そのものを見なければ禅の修行としての意味がないのである。だから、修行者が言葉で「それは“無”だ」と答えても、老師は決して通してはくれない。「違う!」と言下に否定され、「無」そのものに修行者が至るまで、老師は延々とお付き合いしてくれるだろう。ご親切なことだ。(笑)

 さて、禅の修行にとっては“無”という概念的理解と「無」の直接体験との区別が重要なのだということを了解していただいた上で、以下の引用と向き合ってもらいたい。

 まずは、隻手音声の公案ができた経緯を見てみよう。


 それ〔=白隠の大悟〕より今年四十五年が間、親戚朋友をらばず、老幼尊卑を捨てず、何とぞ一回大事透脱とうだつの力を得られよかしと、あるひは自己につきて疑はしめ、或ひは無の字を挙揚こようせしめ、種々方便をめぐらし、提携教喩ていけいきょうゆしけるに、其 中間 少分相応そのちゅうげんしょうぶんそうおうを得て歓喜かんぎを得たる人々は、老幼男女なんにょ緇素尊鄙 しそそんぴ大凡おおよそ数十人に及ぶべくおぼへ侍り。
 この五六ヶ年らいは思ひ付きたる事侍りて、隻手せきしゆの声を聞届ききとどけ玉ひてよと指南し侍るに、従前の指南と抜群の相違ありて、誰々も格別に疑団ぎだん起り易く、工夫励み進みやすき事、雲泥の隔てこれあるように覚へ侍り。これより只今専一ただいませんいつに隻手の工夫を勧め侍り。
(『泥と蓮 白隠禅師を読む』p.261)

 見かけ、すなわち指南の方法が隻手音声に変わっただけで、“指南”したいことは前と同じはずである。ちなみに、白隠は月ではなく南を指してそこに「無」があると言いたいのだから、それは南無であろう・・・。ま、冗談を入れている場合ではない。(^^;

 (反省される)自己に疑いを持たせる、無とは何かを考えさせる、喩えを提示して存在の実相を把握させようとする・・・。しかしながらいずれも弟子たちは観念的思考のレベルに留まってしまい、なかなかパッと「無」に至れない。ところが、隻手の音声などという感覚的対象でしかも最初から無いものを探させて思考停止に追いやると、ダイレクトに「無」に至れることがある。だったら最初から何も考えなければいいようなものだが、そうすると今度は、「無」が最初から存在していてもそれに目覚めていることができないのである。徹底して疑うという意識をもちつつ思考停止に至るとき、思考の底に「無」が見えてくる。そうやって全身全霊をかけて苦労しながら「無」に至る過程が、まさしく禅の修行である。

 もうちょっと余計なことを付け加えると、隻手音声の「無」それ自体はどうでもいいのである。それを通して無我を悟らせるのが本当の目的である。すなわち、我が存在しないことを知るために、(反省的な)我を成立させているところの思考を麻痺させてしまう。そして、思考しない意識状態に達したときに、そのぶんだけ無我がわかる。重要なのは主体の「無」である。この「無」に支えられて、世界のすべて――迷いも悟りも――が存在している。


 是全く耳を以てきくべきにあらず、思量分別を交へず、見聞覚知けんもんかくちを離れて、単々たんたんに行住坐臥の上において、透間すきまもなく参究さんきゅうしもて行きはべれば、つき詞究ことばきわまりて、わざもまた究るところにおいて、忽然こつねんとして生死しょうじ業海ごうかい踏翻とうほんし、無明の窟宅くったく劈破ひっぱす、是を鳳金網おおとりきんもうを離れ、鶴篭つるかごを脱するていの時節と云ふ。
(上掲書 p.264)

 悟ったり解脱したりしたと思っても、それは師のもとで確認しなければならない。

だが、


 たとひ隻手の円音えんのんを聞届け玉ひ、一切の音声をとどめ得玉ひたりとも、精粗あり、遠近有事えんこんあることに侍れば、老僧が膝下しっか において旧参久しく穿鑿をし僧を尋ね求め玉ひて、親敷したしく証拠し決定けつじょうし玉ふべし。
 縦ひ又如上にょじょうの因縁を証得し了知し玉ひたりとも、以て足れりとして容易に休罷きゅうひし玉ふべからず。
(上掲書 p.289)

 悟りに精粗や遠近があるというと曹洞宗の人々から反論があるだろうが、月をさす「指」ではなくて「月」そのものを見たとしても、その人の目が曇っているということがある。あるいは、ときどき煩悩の病がわずかに再発して一時的に曇ってしまうことがある。「月」そのものが曇っているわけはないのだが、目が曇っていると月に霞がかかる。そこで、怠ることなくその都度その霞をとる修行が必要なのである。

 ま、これを曹洞宗の人々と議論し始めると延々と続いて終わらないので、彼らを説得しようとするのはやめて、とりあえず臨済宗はこんな感じで「悟後の修行」も重要視しているということだけ述べて今回は終わりにしたい。


 


 
 
 
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