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2009年9月18日

『真言陀羅尼とお経 功徳・ご利益 事典』を読んで

 大森義成の本は、きちんと信仰し修行したいと思っている在家の人々にとってとても役に立つ。今回は『真言陀羅尼とお経 功徳・ご利益 事典』を紹介しよう。初・中級向きでおすすめ度★★★★☆あたりの本である。
 
 
 私は一般に、熱心に「ご利益」を説く僧侶には疑いの目をもっているのだが、この著者の場合には「ご利益」の裏に欲深さが隠れていない感じがしているので好感をもっている。ご利益は、正しい信仰や修行のなかから生まれてくる功徳が基になって生じてくるものである。著者はその最初の心構えの部分をきちんと伝えようとしている。
 
 この本の内容は、真言の観点からの非常に簡略な仏教史、お経や真言や陀羅尼とは何かについての基本的説明、お経読誦の定型文(懺悔文、三帰礼文、四弘誓願、開経偈、回向文)とその簡単な解説、そして、さまざまな真言陀羅尼とお経のご利益・功徳が述べられている。実際に真言や陀羅尼を唱えようと思っている人は、ついでに大森義成『実修 真言宗の密教と修行』も買ってCDを聴くといいのではないかと思う。
 
 私は、ありがたい霊験の話はあまり信じていない。(笑) だが、それでも昔の人々が――たとえそれが夢や幻想であったとしても――自らの体験を信じたり、あるいは高名な僧侶に本当にそんな摩訶不思議な出来事が起こったのだと信じながら真言や陀羅尼を唱えていたと思うと、全く意味不明の音にもなぜか親しみが湧いてくる。
 
 ま、本当は意味不明ではなく、サンスクリット語ではちゃんとした意味があるし、その深い意味は経典を深く読み込んでいる人には明々白々なのだろうが、この本には真言や陀羅尼のサンスクリット(ローマ字表記)やその意味は書かれていない。私はまだ内容を確認してはいないが、有賀 要延『ダラニ大辞典』は、「用語集」「陀羅尼集」「主尊・種子集」の3篇を以て構成され、陀羅尼を音写字、梵字、ローマ字、訳語の順にあげ解説しているらしい。
 
 これから、真言や陀羅尼を唱えるにあたって大切だと思われる態度を大森義成のこの本から引用してみたい。以下は、大船観音の建立者である浜地八郎(天松)居士の『金剛経要義』に書かれている読誦者の心得であるという。
 
 浜地師によれば、まず自己の信ずる仏前において、何の心もなく経(この場合は『金剛経』)を通読するという。それを日々積み重ねていくうちに、知らず知らずに経典の本義に通達し、何となく愉快と安心とが感得され、形の上においても誠に予想外な利益りやくを受けるようになるという。
 
 そして、読経するにあたり、日々の生活の中で戒を守り、功徳を積む生活を心掛けるべきだとある。
 
 また、読経と同時に坐禅瞑想を勧めている。浜地師の場合は、まず起床後に一時間から二時間坐禅ののち、『金剛経』を一遍から五遍、十遍と読誦していたそうである。ただし、このときには「金剛経」の意義などを考えるのではなく、ただ何となく無関心に読誦する。その度数を重ねるにしたがい、非常に有難くなってくると述べられている。
 
 そして、今ひとつ用心すべきなのは、この経を読誦している間は、諸天善神・諸菩薩などがその場所に降臨するものと信じ、決して不敬な態度をとらずに、謹しんで読誦するべきだということである。

(『真言陀羅尼とお経 功徳・ご利益 事典』p.56)
 私もこのやり方にほぼ賛成である。ただし、やはり経典の意味は別の機会にしっかりと学んでおく必要がある。聞思修の三慧というのがあるが、お経の内容に関する説法を“”いて、その意味を更めて“”い描き、坐禅の“”行をしているような境地で読誦する。このいずれの段階でも頭が働くのである。他者の言葉の意味を聞き取るため、その意味を自分で納得するため、そして、坐禅のような境地の時も、微細な思考が自然と働いてお経の真実が身に収まる。
 
 また、戒定慧の三学の観点からも説明できるかもしれない。謹んで読誦するという態度が、まさに戒の精神である。心を世俗の論理すなわち欲望や怠惰の論理に明け渡さないことが戒の精神だと言える。そして、坐禅のごとき精神状態でいるのが定。この状態でこそ本当の智慧が働くようになる。それが悟りでもあり、またご利益でもある。ご利益は“棚ぼた”ではない。自分がよりよく生きられるような能力が身に付くことである。智慧が身に入って自然と幸せをもたらしてくれるようになるのが“ご利益”である。
 
 
 
 もう一カ所、深く頷いたところがある。
 
 本来、真言の法は阿闍梨に従って三摩耶戒さんまやかいを受け、灌頂かんじょう道場に入ってのちに、縁のある仏尊を知って、その真言を誦えて修行すれば成就を得るというものである。
 
 もし阿闍梨の許しを受けないで、独断で修法壇しゅほうだんに登り、修行の真似ごとでもしようものなら、「越三昧耶おつさんまやの罪」を得るといわれている。
 
 ただし、阿闍梨から真言を授かっていても、その後に指導を受けないでいて、勝手に修行していると邪見を抱くようになったり、あるいは少しのご利益を授かったならば、そこで慢心して魔鬼に魅入られて、乱心して一生を空しく過ごすことにもなると、蓮体和尚は述べているのである。
 
 よく「拝み屋の末路あわれ」などということがある。加持祈祷を生業なりわいにしている者が、最初は霊験もあり、人の信望を集めていたが、次第に慢心して、仏法に背むくことを行うようになり、晩年不遇となる件がしばしばある。筆者自身もその実例を知っている。仏は罰は当てないが、仏を背くことによって魔につけ入れられる隙が生じるのであろう。心すべきことである。だから、密教諸経典には、修行の時には良き仲間を得て、助け合っていきなさいとも説かれている。
 
(上掲書 p.46)
 在家の人が修法壇にあがることはまずないから、独学で真言や陀羅尼を誦していても必ずしも越三昧耶にはならないとは思うが、それでも心がけが悪いと道を踏み外す危険があるだろう。一方、正しい心で真言や陀羅尼を誦していれば、悪くてもご利益無し程度で終わるだろう。結局は、我欲の世界に閉じこもらずにどれだけ諸仏諸尊に対して心を開けるかで、ご利益の有無が決まるのである。
 
 そんなことを念頭に置きながらこの本を読むと、とても大きな収穫があるのではないかと思う。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
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