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2009年11月 3日

『唯識でよむ般若心経』を読んで

 般若心経解説を再開せねばなあと思いつつ、読書ばかりしている。(^^; でも、多少は気になっているので、最近出た横山紘一『唯識でよむ般若心経 ―空の実践』を読んでいた。これは興福寺佛教文化講座での講義録なので比較的読みやすい。しかも2,835円で415ページあるから、どちらかというとお得な本ではないかと思う。表面的でもとりあえず般若心経の意味を知っていて、唯識仏教の基礎知識が多少はあるという程度の人には、非常に役立つ本だろう。初・中級~中級向きで、おすすめ度★★★★☆くらいの本である。
 


 
 興福寺は、薬師寺と並んで法相宗(唯識仏教)の寺院である。だからこの本は、般若心経の解説というよりも唯識仏教の解説と考えたほうがいい。しかしまあ、唯識仏教では「識が有る」とはいっても「その識が空である」ことを最終的には悟らせたいのだから、般若心経と両立しうる。般若心経にも「受想行識亦復如是」という一節があり、色と同じく識もまた「識不異空 空不異識 識即是空 空即是識」なのである。
 
 
 ここで、いかにも唯識的な空の説明を引用しておこう。たとえば非有非無の中道について、こんな説明をしている。
遍計所執性は全く無である、すなわち「都無」であり、依他起性は仮に有る、すなわち「仮有」であり、円成実性は「実有」であるといわれます。この三性の存在性に基づいて、中道が次のように論理的に定義されます。
「遍計所執性は無いから有でない、すなわち非有であり、依他起性と円成実性は有るから無ではない、すなわち非無である」
このように存在全体を三つのありようから考えていくならば、「非有非無の中道」であると結論するのです。(上掲書 p.87)

しかしまた、そのような中道ないし空の観念的把握のあり方を避けるために、一法中道というあり方も取り上げている。
 以上の三性による中道の捉え方は、「三性対望さんしょうたいもうの中道」といいます。もちろんこれもいま述べましたように実践につながっていくものでありますが、どちらかといえば論理的に理解されがちです。そこで現われたのが「一法いっぽう中道」という考えです。これは「一色一香無非いっしきいっこう む ひ 中道」といわれるように、どのような一つの法すなわち存在のなかにも中道の理が現われているという考えです。これは先ほど述べました無分別智で物事に成りきっていくことにおいて分かってくる中道説です。いかなる存在も心のなかにある観念・影像です。それに成りきるとき、それは有るのでもなく無いのでもない。有とか無とかは、はじけ飛んでしまいます。(上掲書 p.88)

 唯識派は瑜伽行派とも言われるように、瑜伽(ヨーガ)すなわち止観を行ずる一派である。そして、言葉による分別を超えた真如の世界に直接至ろうとする。だが、唯識仏教においてはそこまでのプロセスの解説がやたらと詳しいので、ふつうの人々はその解説に眼を奪われてしまい、唯識派は心の分析ばかりやっていると批判しがちである。しかしながら唯識派は、空すなわち真如を悟れない原因を心の悪いあり方(煩悩や無明)とみて、それを超克するために心の側面からアプローチしているのだと言える。これは、中観派が論理の側面からアプローチしたのと対比されよう。
 
 このプロセスに関連する箇所をピックアップしよう。
心のなかに、本当に数え切れないほどのさまざまな影像を、感覚のデータと思いと言葉とによって作り出しています。それらがいわば障礙しょうげとなり束縛となって、真理を覚ることができないのです。したがって、これら障礙や束縛を一つ一つ空じていく、それがヨーガの実践の具体的内容です。
 この心のなかに生じる障礙は、「我」と「法」との二つにまとめられます。我とは自分、法とはその自分を構成する構成要素、あるいは自分の周りにあると考えられるさまざまな事物です。それら我と法とを心の外に投げ出し、それらに執着する。そのことを「我執」と「法執ほっしゅう」といいます。さあ、ここでヨーガを修して、静かに心のなかを観察してみましょう。それらは全部影像にすぎない、すべては仮の存在にすぎない、ということが徐々に分かっていきます。そしてだんだん自分の心のなかがさっぱりとしていきます。我と法とを空じていく。自分のなかから、どんどん、ヴェールを取っぱらつていく。虚妄なるものをすべて遣(や)っていく、否定していく。そして否定の極限に「残れるもの」を覚る。これがヨーガの、空観の目的です。
 そこに到って得るものは、見る側からいえば「般若」の智慧といい、その智慧によって照らし出された世界からいえば「空性」であるといえます。(上掲書 p.104)

 
 唯識派も中観派も禅宗も、目指すところは空なる境地である。著者もまたそのような空の境地へと唯識の側面から誘おうとしているのだが、さて、言説として十分にうまくいっているのかな? 原理的に語れないものを敢えて言葉で表現しようとする試みは、たいてい失敗するし、講座ということでナマで話している“その時”においては成功しているにしても、文字になり書物になるとまったく伝わらないということも多い。そのあたりの問題点は読者の修行経験と感性に頼らざるをえないだろう。著者は般若心経と唯識思想をネタに、言葉を超えた空の世界を伝えようと意図しているのだと思って読めば、まあそれなりに得るところはあるのではないかと思う。
 
 
 
 
 


 
 
 
 
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