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2009年12月 6日

般若心経解説(12)受想行識亦復如是

~ シリーズ最初からよむ人はこちら ~ 
 
 
(漢文読み下し)  
 受想行識もまたかくの如し
 
(梵文和訳)
 
 まさしくこのように、受想行識は(空性であり、空性こそが受想行識なのである。受想行識は空性とは異ならず、空性は受想行識とは異ならない。受想行識であるところのものが空性であり、空性であるところのものが受想行識なのである)。
 
 この一節は、色不異空などの縁起的存在のあり方を色のみならず受想行識にも適用できるという意味である。だから、繰り返しを厭わずに述べると、以下のようになる。(括弧内はサンスクリットの般若心経にのみ存在する意味。)
 (受は空性であり、空性がまさしく受なのである。)受は空性とは異ならず、空性は受とは異ならない。受であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが受なのである。
 (想は空性であり、空性がまさしく想なのである。)想は空性とは異ならず、空性は想とは異ならない。想であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが想なのである。
 (行は空性であり、空性がまさしく行なのである。)行は空性とは異ならず、空性は行とは異ならない。行であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが行なのである。
 (識は空性であり、空性がまさしく識なのである。)識は空性とは異ならず、空性は識とは異ならない。識であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが識なのである。
 
 受は苦楽の感受作用、想は対象の形相を捉える構想作用、行は意志や動機などの力動的な心理作用、識は認識作用である。これらには、定まった性質(すなわち自性)がない。
 
 たとえば、同じ水を感受するにしても、渇いているときは快楽を感じるが、溺れているときは苦痛以外の何ものでもない。あるいは、薄暗い道で長いものをみつけて蛇だと思って恐れる場合もあれば縄だと分かって安堵する場合もあるように、同じ対象が必ずしも同じ形相に捉えられることはない。また、人間の意志(たとえば特定の人への愛情)は永遠ではなく、ころころと変わってしまう。さらに、さまざまな経験によって対象に対する認識はどんどん変化していく。むしろ、状況によってどんどん心が変化しうるからこそ人間は外界に適応できるのだとさえ言える。
 
 
 ところで、色は広義には目に見えている形あるもの、すなわち事物一般である。事物一般は永遠不滅ではなく時間とともにいずれ形が崩れていくものであり、それゆえ実体性がない。だが、この場合の色は、狭義に肉体と考えても差し支えない。そして、人間の心に相当する受想行識もまた色と同じ法則のもとにあるということは、人間は身心ともに空性であるという意味でもある。
 
 一般に、初期仏教(原始仏教から説一切有部などの部派仏教まで)では我が空であることまでしか明らかにされず、大乗仏教において初めてあらゆる要素的存在(すなわち諸法)もまた空であることが明らかにされたと考えられている。そして、般若心経のこの一節までが初期仏教の我空を意味し、この後の「舎利子是諸法空相」以下の部分で法空が明らかにされる、と解釈されることもある。
 
 たしかに個人が死んで無になっても外界はそのまま存続しているのだが、もしこれを、初期仏教は“皮膚の内側”のみを空として“皮膚の外側”を有と考えたと見なしたならば、それには少々問題がある。なぜなら、皮膚の外側にある形あるもの(色)もまた生滅することは、諸行無常・諸法無我によって原始仏教の頃からすでに教えているからである。この教えをうけて部派仏教では、形あるあらゆる事物がそれ自身としては実体性がなく諸法(すなわち要素的存在)に還元される(分解される)故に空である、と見なした。ところがそこまでで認識が止まってしまった。一方、大乗仏教徒はその諸法までもが空であるとの認識に達した。皮膚の内外(または自他)が問題なのではなく、むしろ存在の根底が空であるかどうかが問題だったのである。
 
 
 《以前》、色即是空の解説のために以下の図を使用した。
 
 
色と空(2)
 
 
 これを拡張して、これまでの経文の意味を一括して図示すると以下のような図になるだろう。
      
 
五蘊と空
 
 
 
 中央の大きな円が空性を表わす。そして、それ以外の(円の外側)部分は、仏教的には存在しないものの領域を意味する。空性の円と色受想行識の円とが重なったアーモンド型の五つの領域は、おのおの色即是空、受即是空、想即是空、行即是空、識即是空を意味する。これらが世の中に実際に存在する五蘊であり、これらをまとめて有為法という。また、これらの外側に割り当てられる色受想行識は、存在していると観念的に思われているだけで実際には存在していない。一方、中央の☆の水色領域は無為法を意味する。有為法と無為法を合わせて一切法という。それは中央の大きな円に相当するから、一切法は空性であることになる。
 
 原始仏教では五蘊が一切法だったが、部派仏教になるとそれらは有為法と呼ばれ、その他に無為法が加えられた。説一切有部は虚空、択滅、非択滅の三つを無為とし、唯識法相宗はさらに不動滅、想受滅、真如を加えて六無為とした。
 
 虚空は五蘊を容れる空間である。択滅は涅槃と同義とみていいだろう。非択滅は縁が欠けているために何も生じない状態である。『大乘百法明門論解』(大蔵経テキストデータベースを参照)によると、不動滅は色界の第四禅で顕われる真理、想受滅は無色界の無所有処で想受が働かないときに顕われる真理だから、深い禅定で体得される空の理を意味していると考えて差し支えあるまい。真如は第一義諦としての空性そのものと考えていいのではないかと思う。無為法は、色の否定としての空、ないし受想行識の否定としての空とほとんど同じものを指していると言ってもよかろう。いわば無になった状態を意味する概念である。
 
 色でない空性の領域には、空である受想行識(四つのアーモンド型の領域)も含まれてはいるが、これは色ではない別の存在状態を意味している。しかしながら、「色即是空」で言いたいのは“色であると同時に空である状態”だから、この四つのアーモンド型の領域はあまり議論すべき問題ではなかったのだろう。「色即是空 空即是色」で警戒すべき重要な点は、色を否定するあまり空無の観念に陥ってしまって色がそのまま空であることを見落としてしまうことである。
 
 原始仏教では、涅槃が無為とされる。それは、あえて何かを打ち立てたのではない状態を意味する。有るがままに(現象が)有り無いがままに(自性が)無い状態の認識(般若の智慧)にとどまっているのが涅槃だが、原始仏教では完全な涅槃(般涅槃)は肉体を滅した涅槃(無余依涅槃)だから、彼岸という虚無の世界がそれ自体として存在するような気がする。だが、もしもここで無為“法”として何らかの観念を打ち立てたなら、それはもはや法であって無為そのものではないだろう。涅槃はあらゆる観念を離れて寂静としている。それと同様、六無為もまた本来は“法”ではない。
 
 しかし、概念的に整理するために説一切有部はそれらを法として扱っている。私がここで提示した図もまた概念的な整理のためである。私が真如を意味するときに「この図の向こう側」などと表現するのは、そのためである。真如もまた概念的に把握するならばこの無為法の領域に入る。そして無為“法”の向こう側には、無為法の実相としての無為がある。
 
 般若心経の経文自体は、無為法もまた空性であるとは明言していない。しかし、のちほど経文に出て来る「無苦集滅道」の滅は択滅を意味しているから、無為法もまた五蘊等の有為法と同列に空性であると見なしていると考えて差し支えなかろう。
 
 
 ところで、この図では我ないし人間はどこにいるのか。
 
 インド哲学でいう我(アートマン)は、実体であって空ではないとされるのだから、中央の大きな円の外側、すなわち存在しない領域に割り当てられる。一方、縁起的な現象としての人間は、これらの五蘊(五つのアーモンド型の領域)から構成されたものである。だから、存在の要素(すなわち法)のどれかとしては出て来ない。
 
 あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。現象としての人間はどの部分をとっても空性だが、自らの五蘊の全体またはその一部でもある。たとえば、肉体の一部が欠けていても人間だし、感覚が麻痺している場合には受がないし、深く眠っている場合には識がない。また、感情などを抑圧している場合には、私の心の一部を恣意的に否定していることになろう。誰でも「人間」と言ったり「私」と言ったりする場合には、このようにその状況で生理的・恣意的に変化する伸縮自在な一定範囲を指してそう宣言しているのである。
 
 結局は、「これが私だ」と恣意的に定義され、執着され、永遠だと誤認されたものが「我」なのであって、それは実体として客観的に存在するものではない。ところが、実体としては存在しないけれども、「私」という言葉のもとにかき集められた身心が、現象としては存在しているのである。
 
 
 
 
 
 
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