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2010年1月 9日

般若心経解説(13)舎利子 是諸法空相

 

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(漢文読み下し)
 
 舎利子 是の諸法は空相なり
 
(梵文和訳)
 
 ここではシャーリプトラよ、一切法は空性という特徴が(ある)。
 

 
 法(ダルマ,dharma)は非常に多義である。そこで、まずは法の意味をざっと見ておこう。中村元『佛教語大辞典』(東京書籍)から、関連箇所を抜き出すことにする。
 
  
 
 dharmaは、√dhRに由来し、「たもつもの」特に「人間の行為をたもつもの」が原意。
 
インドでの一般的な意味としては、
①慣例,習慣,風習,行為の規範。
②なすべきこと,つとめ,義務,ことわりの道。
③社会的秩序,社会制度。
④善,善い行為,徳。
⑤真理,真実,理法,普遍的意義のあることわり。sdatyaと同一視される。
⑥全世界の根底。
⑦宗教的義務。
⑧真理の認識の規範,法則。
⑨教え,教説。
⑩本質,本性,属性,性質,特質,特性,構成要素。
⑪論理学では、述語・賓辞。
 
アビダルマ教学においては、「能持自相故名為法(svalakSaNa-dhAraNAd dharmaH 物事のあり方の本質を把持するから法という)」と解釈され、それ自体の本性をたもって変化せず、認識や行為の規範となるものと考えられている。
 
⑩意の対象。思いの内容。考え。六境の一つ。心のあらゆる思い。思考の対象となるもの一般。心の対象。心が対象としてとらえるもの。(『般若心経』『金剛般若経』大正8巻749上,『中論』23:8,『維摩経』大正14巻541中,550下)
⑪事物。存在。存在しているもの。もの。具体的個別的な存在。対象。もののありのままのすがた。五位七十五法とか五位百法とかでまとめられるもの。(『中論』7:30,『唯識三十頌』大正31巻60上,『成唯識論』大正31巻1上)

 
 
 法にはまず「規範」という意味がある。そこには社会的規範も宗教的規範も含まれている。前者の規範であれば、習慣,慣例,社会的義務,社会的秩序,社会制度(法律)などの意味になるだろうし、後者の規範であれば、善,善い行為,宗教的義務などの実践的規範と、真理,真実,理法,教えなどの認識的規範になる。
 
 アビダルマなどの学問的な仏教では、特に認識的規範が重視されるだろう。「諸行無常,諸法無我」と教えられているのならば、一切のものは固定的な状態をもたないはずである。しかし、現実には一切は無秩序に変化・展開するのではなく、特定の状態を保っていたり、一定の法則にしたがって変化していったりする。そこには“事物の法則”がある。
 
 事物はそれぞれに固有の特徴や本質を持っていながら時々刻々と変化していく。この二重性こそが、仏教の「法」を理解するカギである。アビダルマ仏教では、生成変化の底流にあって変化しない本質的側面を強調して“法”を説いた。一方、『般若心経』をはじめ般若・中観系の仏教では、変化して実体がない側面を強調して“法”を説いた。
 
 両者とも存在の根底(せらに言えば全世界の根底)を明らかにする試みではあったが、方向性に違いがあった。アビダルマ仏教では、諸々の事物は合成され解体されていくものであり、その構成要素となるものを明らかにしようとして五位七十五法などの“法”のカテゴリーを提示した。一方、般若・中観形の仏教では、そんな構成要素としての“法”にも実体はない(=空である)と論じていった。
 
 唯識仏教は、両者を統合するために識の側面から理論を展開した。つまり、色即是空よりは識即是空を基本において空の世界を説明しようとしたのである。アビダルマ仏教の提示する存在の構成要素としての“法”は、事物の特徴や本質や法則ではあるが、一方で唯識仏教の立場からすれば「そのように心によって捉えられたもの」でもある。そこで唯識仏教では、一切の存在論を“認識された事態”に還元してしまうのである。その言説が正しかろうが間違っていようが、仏道修行という観点からは、そのように心によって捉えられたあとに固定化されてしまった存在に関する観念・概念こそが克服されなければならないのだから。正しい言説は、“いつも当たっている言説”というだけであって、それが存在そのものというわけではない。
 
 
 さて、ここで一切法という場合には、有為法(=五蘊)も無為法(=涅槃など)も含まれる。「もの」も「理法」も含まれる。だから、「一切法は空性という特徴がある」とは、身心には実体がない、身心によって知覚される対象にも実体がない、その知覚内容にも実体がない、のみならず、十二縁起という存在生成の法則にも実体がないし、四諦(=苦集滅道)という仏教的真理にも実体がない、という意味である。
 
 十二縁起や四諦まで実体がないと宣言されると、それは仏教を逸脱した邪説のように思われるかもしれない。しかし、それらの理法もまた心によって捉えられたものであるならば、我々は心に映されたかぎりでの仏教的真理を見ているのである。こちら側で誤解しているかもしれないし、たとえこちら側で全く正しく理解していたとしても真如は常にその正しい認識の彼方からやって来る。すなわち、こちら側で「これが真理である」と打ち立てた観念ないし言説は、すべて真如の影像であることになる。影像自身は幻のごとく実体がないのである。
 
 真如はいつも彼方からやって来るのであって、我々の側からはいつも決して真如には到達しない。このような認識態度が、般若心経の空を理解するためには重要である。それは、心が打ち立てたものにこだわるな、ということである。こちら側では何も打ち立てないときに真如がやって来て、その影像が心の中に立ち現われる。心がからになったときにこそ、そこに菩提(=悟り)が立ち現われるのである。
 
 
 この経文は、心をからにする段階の教えである。存在するあらゆるもの(=一切法)が幻のごとく実体がないとなれば、対象への執着も、その対象についての観念へのこだわりも自然と無くなってくるだろう。つまり、その対象や観念に対する態度が無意味になってくるのである。すると、これまでその対象に付与していた実体性が薄らぎ、やがて消滅していくだろう。
 
 空性とは、「自性(=実体性)が空である」という意味だから、「一切法は空性という特徴がある」という経文の意味は、一切法が“それ自身まったく無い”という意味ではなく、一切法には“その実体性が全く無い”という意味である。我々が世界像を打ち立てるための固定的な存在が全くないとしたら、我々の世界像は流動化して、やがては幻のごとく消滅していく。その究極の状態が「空」の境地である。
 
 



 
 
 
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