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2010年3月28日

般若心経解説(15)不垢不浄

 

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(漢文読み下し)
垢ならず、浄ならず、
 
(梵文和訳)
(一切法は)汚れているということもなく、汚れを離れているということもない。

 
 不垢不浄は、マクス・ミュラー本と榊本では“amalA na vimalA”となっているが、岩波本では“amalAvimalA”となっているらしい。『般若心経を梵語原典で読んでみる』ではこれを“amala avimalA”と解しているが、マクス・ミュラー本との文法的整合性を考えると、両方とも複数形で“amalA avimalA”と解したほうがいいのかもしれない。文意としては三本とも同一である。
 
※榊本:榊亮三郎著『解説 梵語学』(真言宗高等中学)〔新版として榊亮三郎原著『新修 梵語学』(永田文昌堂.1973年)〕
 
 
 ここでいう垢とはけがれである。宗教では衛生的な意味での汚れはほとんど問題にされないが、文化的な汚れは非常に重視される。食物のタブーのみならず様々な行動にタブーが設けられ、それらを犯さない生活が清い生活だと信じられている。おそらくこの一節はバラモン教なども念頭に置いていたのだろうが、大乗仏教の立場からの小乗仏教批判と理解したほうがいい。汚れた世俗を離れて身を律するだけで悟りの境地と言えるのかと。また、戒律にがんじがらめに縛られた状態でほんとうに他者救済ができるのかという問いかけにもこの一節は答えているように思える。個々の戒律に縛られているかぎりその先には進めないのだと。
 
 さらに、精神的な意味での汚れ、すなわち煩悩も意味しているのだろう。心を徹底して浄めるのが仏教であり、煩悩が完全に無くなった境地が涅槃である。だから、汚れ(煩悩)から完全に離れた境地に住するのはよいことのように思える。しかし、自分は汚れを離れているのだという観念に捉えられてしまえば、その修行者は空性から外れてしまう。
 
 浄土教では「厭離穢土 欣求浄土」と言われるが、浄土に行きっぱなしであってはならず、穢土に戻ってきて衆生を救済するのが本来の大乗仏教である。穢土を厭離したままであってはならないし、浄土に愛着してもならない。穢土も厭わず浄土も望まず。両方にこだわりをもたず、両者を超越しているのが空の心なのである。
 
 煩悩がある状態よりは煩悩の無い状態のほうが善く、煩悩の無い状態よりは煩悩にこだわらない状態のほうが善い。神秀と慧能の漢詩がこれをよく表わしている。
 
 〔神秀〕
 
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
 
 
 〔慧能〕
 
菩提本無樹 明鏡亦非臺 (菩提もとより樹無し 明鏡もまた台ならず)
本來無一物 何處惹塵埃 (本来無一物 何れの處にか塵埃を惹かん)
 
 
 神秀のほうは、煩悩の塵をひたすら払い、その塵が完全に無くなったところが悟りの心境だという。一方で慧能のほうは、塵がつく自我というものがそもそも無いのが悟りの心境だという。般若心経が言わんとするのはもちろん後者である。全くこだわりの無い空の境地にいると、清い状態にある場合もあれば、清い状態でなくなる場合もある。だが、汚れと共にあっても常にその汚れから遊離しているのが、こだわりの無い境地である。本物の聖者は、為すべき仕事が終わるまでは汚れた状態を全く厭わず、為すべき仕事が終わったら、さっさと塵を払って清い状態に還るだろう。
 
 仏教では清浄という言葉がよく使われる。しかし、これは汚穢と同一平面で対立する清さではない。汚れているか否かというレベルを全く超越しているのが清浄である。それ自身としては何も無いのだから、むしろ清さのほうに近い。そして、全般的に見るならばおそらくは清さの方へと進む傾向にあるのだろう。なぜなら、煩悩熾盛で汚れた生活よりは清らかな生活のほうが人間本来の自然に近いからである。その自然状態は、主観的には「無」の境地である。重要なのは、表面的または一時的な状態を超越したこだわりのない境地なのである。
 
 この一節は、「一切法は空性という特徴が(ある)。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れているということもなく、汚れを離れているということもなく、……」と続いてくるから、垢浄の主語は「一切法は」であろうと思われる。一切法そのものはまったく中性的であり、人間の側で好き嫌いを言うから様々な法が汚れていると思えたり清らかに思えたりする。もちろん我々は人間存在という限定のなかで生きているのだから、実際問題として汚れは存在するだろう。しかし、ここで問題にしているのは空の境地であり、その境地にあっては現象的な意味での汚れは問題ではないのである。
 
 あらゆる法に対して汚れているとも清いとも思わないならば、いかなる法にも自由に対処できるだろう。そのような自由な境地が般若心経では説かれている。いかなる事柄に対しても自由自在に対処できるならば、自分を救うのも他者を救うのもずっと容易であろう。
 
 

 

 
 
 
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