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2010年3月31日

般若心経解説(16)不増不減

 

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(漢文読み下し)
増えず、減ぜず。
 
(梵文和訳)
(一切法は)不足しているということもなく、満たされたということもない。

 
 この一節は、むしろサンスクリット原典をもとに考察してみたい。というのは、上の梵文和訳にも見られるようにサンスクリットと漢訳では意味に微妙なずれがあるからである。
 
 この一節のサンスクリットの原文は、nonA na paripUrNAH である。nonA は na UnAH が連声したものだが、この Una は、「不足している」という意味の形容詞である。また、paripUrNaは、pari-√pRという語根から派生した「満たされた」という過去受動分詞である。漢訳では前半が不減に当たるのだろうが、では後半が不増に当たるのかといえば微妙なところであろう。それに、サンスクリットと漢訳では、不増不減の順序が逆になっていると言える。漢訳の場合は、より日常的な文脈での訳語を選択したのではなかろうか。
 
 
 過不足(増減)という観点から分かりやすい例をあげよう。それは、何かを受け取るという事態である。原始仏教の坊さんならば托鉢で受け取る食べ物だし、最も広くとるならば自分が体験している自分の人生そのものを考えてもよいし、その中間形態として自分の給料の額でもよかろう。現実には、自分の受け取ったものがすべてである。そして、あるがままを受け取るのが仏教的態度と言えよう。ところが、現実以外に余計な考えを付け加えるから、それと比較して自分は不足だとか満たされているとか考えることになる。現実以外の何か不変の基準を置くから、それに照らして増えたとか減ったとか考える。
 
 漢訳での意味を考える場合には、この例で十分だろう。一切法(すなわち諸現象としての物事)それ自体はあるがままであり、また次第に変化していく。ところが、そこに変化しない一定の基準を観念上で付け加えるから、ものが増えたとか減ったとか言い出すのである。あるがままをいつも受け入れている人には、増えたとか減ったとかいう主観的な基準による観念がない。だが、現実には何らかの変化があるのだから、それに応じて認識も変化してくるだろう。
 
 この箇所は、増益と損減という意味で解説されることもある。増益とは、本当は無い何かを付け加えることであり、これは般若心経の用語で言えば、法(現象としての物事)に自性(実体性)を付け加えることである。損減とは、実際には存在するのにそれも存在しないと見なしてしまうことであり、これは諸現象としての物事までも否定して虚無主義に陥ることを意味する。対象を観察するときに増益も損減もなくあるがままに受け入れることにより、一切法の真実が現われてくる。
 
 
 以上の説明で、一般的な解説としては要点を尽くしていると思う。だが、私としてはこの一節にはもっと別の意味が籠められていると考える。それは、修行不足と修行の満了という観点からの解説である。
 
 一般的な言い回しにもあるように、修行は“積む”ものと考えられている。だが、般若心経の文脈では、実体としては煩悩も無ければ修行も無い。だから、実体としては“無い”修行を積み上げるということはあり得ない。そこで、修行に関する発想法を根本から転換しなければならないのである。

 悟りとは、あるがまま(真如)をそのまま受け止めていく境地だから、どこかに悟りの世界というものがあって、修行によってそこへ移動するというものでもないし、また、お金を貯めて何かを買うように、積み上げてきた修行の成果と引き換えに得られる“何か有るもの”でもない。
 
 煩悩を滅して悟りとやらを代わりにそこに置いたのなら、それは、煩悩の心が悟りという心にその姿を変えたにすぎない。もちろん、煩悩も菩提(悟り)も心のはたらきであるから、これは心が汚れた状態から清らかになったことを意味する。しかし、煩悩が滅するために煩悩でない心のはたらきを積極的に作り出すのでは、煩悩と菩提という二元対立ができてしまうだけである。(これは本当は菩提というより煩悩の対治(反対のもの)としての善心である。)
 
 一方、菩提とは、「煩悩はその本質が幻のごとく儚いものである」という認識に照らされて心の中から煩悩が常に消滅していくような方向性を生じさせる透徹した智慧のはたらきである。菩提そのものには、積極的に「これだ」と何か特定の存在を主張するような内容はない。むしろ反対に、「結局それは何でもない」という真実をただただ明らかにしていく智慧のはたらきである。具体的な内容がないのだから、菩提を否定することはできない。
 
 煩悩が“有る”のでもなく、菩提が“有る”のでもない。煩悩を叩き壊そうと思っても、叩き壊すべき実体的な存在は初めから無い。だから、「まだこれだけのものが壊せてません」とか「これだけ完璧に壊しました」という修行の成果は存在しない。実体としての何かが有るとか無いとかいう文脈には当てはまらないからこそ、仏道修行は成立しているのである。『金剛般若経』ふうに表現するならば、「修行が修行でないとき、それが修行である。」と言えるだろう。
 
 煩悩は幻のごとくであり、菩提もまた特定の想念ではない。いずれも積み上げることはできないから、煩悩がその本質において増えたり減ったりすることはないし、菩提がその本質において増えたり減ったりすることもない。修行不足というのは、修行を想念か何かのように見なして積み上げ可能だと考える立場である。修行が満了したというのは、仏陀の世界という想念を立てているからである。仏陀の境地は、常に想念が消滅しつつある状態へと心をチューニングしている境地である。仏陀の境地という究極のところでは、一切は幻のごとくして実体的なものは何も無い。
 
 そもそもこの世に存在しているかぎり、さまざまなものに刺激されて想念は常に生じてくる。だが、仏陀や菩薩の想念は清らかだろう。汚れた想念は煩悩として第一番にその幻性が見抜かれて消滅しているからである。だが、清らかな想念もまた、それが幻であることにかわりはない。それらもまた最終的には消滅すべきものだが、衆生済度の役に立つからこそ仏陀たちによって仮に維持されている。浄土は、空性を明らかにするため方便化土であり、究極のところは無である。その無へと最もスムーズに、そして安楽に移行できる想念世界が浄土なのだと言えよう。
 
 『華厳経』では「初発心時 便成正覚」と言われる。発心すればすでにその時点で悟っている。では、修行は無用なのか。修行不足などということはあり得ないのではないか。これは一面で正しい。空性は、煩悩にも菩提にも初めから浸透しているのであり、それに気づくか否かが重要なのである。それに気づかなければ煩悩となり、それに気づけば菩提となる。煩悩の中にいてそれに気づかなければ修行不足ではあるが、気づいていれば修行不足ではない。煩悩の出現はしばらく続くが、その時点での煩悩は刻々と滅しつつある。これは過不足なく修行が進行している状態である。一方、たとえ菩提を得てもそれを想念と化してそれに囚われてしまえば、それはやがて菩提から外れてしまうだろう。物事が常に変化しつつあるかぎり、その物事の空性を受け入れる菩提もまたその内容が刻々と変化している。修行生活はこれでオシマイということにはならないのである。
 
 
 
 最後に、全体的なことをコメントしておく。この一節の主語の「一切法は」は、むしろ「修行に関する一切法は」の意味にとるのがよいのではないかと思う。この箇所全体としては、「一切法には空性という特徴があり、それらには不生不滅という側面と、不垢不浄という側面と、不増不減という側面とがある」という意味に捉えるとよい。不生不滅の場合は、主に世俗的な存在に関する空性の真実であり、不垢不浄の場合は、主に修行しつつある事態での空性の真実であり、不増不減(不足してもいないし、満たされてもいない)の場合は、主に悟りの境地での空性の真実である。
 
 
 


 
〔つづく

 
 
 
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