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2010年3月14日

『印と梵字 ご利益・功徳 事典』を読んで

 
 同じような本を出しているなあと思いつつ、気になって読んでしまった。本書前半の印の部に関しては、左ページは『大正新脩大蔵経 図像部』から諸仏諸尊の図が引用され、左ページ上段に印の名称とイラストと真言(ひらがな表記)が載せられ、同下段に主な出典,印の結び方,由来と功徳が解説されている。後半の梵字の部では、上段に諸仏諸尊の種字(梵字)と読み方(カタカナ表記)と原音(ローマ字表記)があり、下段には、種字の由来,意味と功徳が解説されている。初中級~中上級 おすすめ度★★★★★
 


 
 前半に関しては、同じく学研の『仏尊の ご利益・功徳 事典』と内容的に重なる部分が多いように思えるが、やはり今回紹介している本は印の解説に重点がある。印は仏の徳性を象徴的に表わしている。したがって、単に手指を組んで印の形をつくればいいのではなく、その形を通して諸仏諸尊の徳性を観想しなければならないだろう。慣れてくれば手指を組んだだけで無意識領域で自動的に観想してしまうことになるが、最初はそうはいかない。そこで、最初は印の象徴的な意味を心に刻みつける必要がある。

 そのための解説としてこの本は十分かと言われると、???となってしまうが、これはとっかかり、ないし入門的な本だから、本格的にやりたい人は正式に弟子入りするなり、あるいは経典を読破してその諸仏諸尊の徳性を完全に把握してしまうことである。その内容すべてが各々の印の中に凝縮していると考えるとよい。これは真言や種字に関しても同じであり、要は経典をしっかり読んで内面化していないと、密教の行法は“ただの猿まね”になってしまうだろう。しかし綱を握っているのが仏であるとすれば、それなりの芸をすることはできる。中身がどれだけあるのかは別として。
 
 密教の阿闍梨に弟子入りせずに個人でやることに関しては、一般的には推奨されない。だが、もし在家の人で印を結んだり真言を唱えたりするつもりなら、とくに自分が惹かれる如来や菩薩のものに限ればそれほど大きな問題は生じないだろうと思う。高位の仏や菩薩の場合、臨終のときの阿弥陀仏などは別として、低いレベルの者はほとんど相手にされないからである。つまり個別的なご利益はあまり期待できない。しかしながら、それでも諸仏諸菩薩の徳性を思って印を結んだり真言を唱えたりする人には秘かに功徳が生ずるだろう。反対に、諸天への祈りはご利益が容易に得られる場合もあろうが、あとあと厄介が起こるかもしれない。というのは、祈る者自身の欲が足を引っ張るからである。
 
 こんな喩えはどうだろう。下品な男が貴婦人にアプローチしてもまったく相手にされない。だが、自らの品性を磨いて礼儀正しく控えめにアプローチすれば、多少は振り向いてくれるかもしれない。お付き合いが叶うまでにはいかないかもしれないが、微笑みくらいは返してくれるかもしれない。まあ、それが至福の喜びということもあるわけで、恋愛は必ずしも相手を獲得することがゴールではない。反対に、いかに下品な男でも、飲み屋のネーチャンにアプローチすると簡単に応じてくれる場合もある。だが、ここで自分はモテるなどといい気になってはいけない。その先に何が待っているか・・・・・は私よりも経験者に聞いてほしい。(笑)
 
 密教の行にはそんな一面があるので、「清浄なるものへの信」が第一に必要である。無欲にして受けられる恵み以外は期待すべきではない。この無欲とは、無欲であれば当然これだけの恵みがあるはずだという欲も捨てているという意味である。恵みすなわちご利益は、仕事への対価でも取引でもない。純粋に向こうから与えられるものである。というわけで、最も清浄な者である如来か、その次の菩薩にターゲットを合わせているのが無難なのである。
 
 第二に、「経典などで学習したもの以上には何も得られない」と心得ておくべきである。ターゲットを絞るために如来や菩薩の名前や姿を知ったとしても、それがどこに存在しているのかが分からなければ実際に狙いを定めることはできない。清浄とはどちらの方向にあるのか、それが経典などでの学習である。とにかく印を組んで真言を唱えていればいいのだろうと思って“あさっての方向”を向いて祈っていても効果は期待できない。慈悲深い仏なら、あるいは忿怒の形相で現われて恐怖心を喚起して正しい方向へと向かせてくれるのかもしれないが、あまり期待しないほうがいい。
 
 なお、印や真言それ自身に経典を超えた深い意味があるのだと教える密教僧も多いとは思うが、それは経典が読みきれていないということだろう。経典は「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」なのである。たとえいつも眼の前にあっても、その深い真実の意味に出会うことは困難である。
 
 
 本書後半の梵字の部に関しては、児玉義隆の梵字の本はこのブログでも以前に紹介しており、内容的には重複してしまう。だが、摩多点画(子音につける母音符号)や梵字の切継ぎ(合成文字の作り方)や字義の一覧表があるので、これがついていない本を買った人なら決して損はない。
 
 また、種字の由来を知ると、種字と諸仏諸尊の徳性を密接に関連づけることになる。そうなると種字を見ただけで諸仏諸尊の働きを連想してしまうので、種字がそのまま諸仏諸尊であるという感じになるだろう。単なる珍しい文字記号ではなくなる。
 
 とくに真言には種字が含まれていることがあり、その種字の字義を確認するのも重要ではないかと思う。たとえば、阿字の字義は本不生である。これは不生不滅の意味である。さて、不生不滅の意味を深く理解している人はどれだけいるだろうか。それは如来と菩薩だけであると言い切ったら元も子もないが、般若経や中観思想などを勉強して多少なりとも知っている人は多いだろう。その認識と重ねて初めて阿字観が成立する。不生不滅を深く理解している人のみが深く阿字観を修することができる。
 
 そのほかの種字に関しても同様で、たとえば、虚空蔵菩薩や宝生如来のタクラ(trAH)字は、その字義からいって如如(t),離塵垢(r),寂静(A),涅槃(H)の合成であり、真如に接して煩悩の塵を離れ、寂静を体験して涅槃に入る、という意味と考えてよかろう。このような意味を瞑想しながらタラク字を眺めていると、この字には無限の力が備わっているように思えてくる。
 
 
 
 いろいろと書いているときりがないのだが、このようにしていろいろと考えると、けっこう使いでのある本だとわかる。ま、素人考えで間違った解釈をする場合もあろうが、上の二つの注意点を心に留めておけば、自分の解釈が多少のズレてしまっても阿弥陀如来に向かうはずが阿閦如来のほうにいってしまったというくらいで、悪いことが起こるというようなことはなかろう。むしろ、いろいろ考えているうちに仏教的センスが磨かれるのではないかと思う。
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
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