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2010年4月20日

『What Is Zen? 禅ってなんだろう』を読んで

 久しぶりに英語の勉強をしてしまった。(笑) 対訳にしてはやけに上手い英文だなあと思ったら、訳者は Jeffrey Hunter となっており、私はよく知らないのだが東京大学大学院で仏教学を修めた文学博士だそうである。どうりで上手いわけだ。細かく見るならば逐語訳でない部分もあるが、杓子定規な逐語訳は築誤訳にもなりうるわけだから、高校生の英語テキストでないかぎり、言葉よりも心を伝えることが重要である。それに、禅は「以心伝心」だしね。(笑) 冗談はさておき、もちろん英訳は原典に忠実といっていい。内容としては普通の概説であり、英語がある程度はできる初級者~中級者向きで、おすすめ度★★★☆☆くらいである。

 禅語を英語に訳すとどうなるか。私の感想としては、だいぶシンプルになるものだなと思った。これは、禅に深く関わっている人には物足りなさを意味するのかもしれない。しかしその物足りなさは、逆に言うならば、漢語を禅語としてそのまま使っている禅者の泥臭さを意味しているのではないかとも思う。禅の本質はずっとシンプルなのに――というか端的に“無”だ(笑)――この英語は禅の境地を示すものとしては味わいがないとか情趣がないとか言い張る禅者がいるとしたら、その禅者は禅の途中の境地に味著しているのだろう。菩提という山の頂上に往く道は複数ある。おそらく外国人向きの禅の登山道もあるに違いないのだ。

 反対に、これまでほとんど禅に関わってこなかった人に対しては、「禅の本質はシンプルでも貴方の心は複雑で微細に錯綜しているので、決して一筋縄ではいかない。簡単だと思ってすぐに分かったつもりにならないように。それはむしろ貴方のおつむがシンプルすぎるのだ。」と忠告しておかねばなるまい。模範解答のようなものを見つけて頭で分かっただけでは禅の本質は決して掴めていない。


 では、これから私が多少勉強になった箇所を引用してコメントを加えておきたい。まずは仏陀が迦葉尊者に法を伝えた拈華微笑についての解説箇所から。(「拈華微笑と言われて、ああ、あの出来事かと思い出せない門外漢は、顔洗って出直して来い!」というのがこれ以降の私のスタンスなので、そのつもりで。)

 悟りの伝承は本来「以心伝心」だから、言葉では説明できないのとするのが禅の立場である。だがどんな世界でも仕事の究極は本人自ら悟るよりなしそれを見て師匠が弟子の境地をうけがうものだ。
 お釈迦様は一念のはからいも思惑もなく、無心に華を差し出した。その華を見た迦葉尊者がやはり何も分別せず無心で華と一つになって微笑んだ。華を媒介にしてお釈迦様と迦葉尊者の本来の自己がピタッと一つになったのである。
(藤原東演(著),Jeffrey Hunter(翻訳)『What Is Zen?禅ってなんだろう―英訳付』)

 この解説だけでスパッと分かったならばこの本は読む必要がないが、この本には解説はこれだけだから、初心者が読んでも意味がさっぱりわからない。(笑) まあ、“無心”が仏陀から迦葉尊者へと飛び火する事態がどのようなものかが分からなければ拈華微笑は無意味だし、それがわかるために禅の修行者はひたすら坐禅を組むのである。

 では、その坐禅工夫とは何か。

 では公案の工夫とは何をどうしたらよいのか。始めて公案をもらった時、参禅するたびに否定されて、どう手をつけたらいいのかわからず苦しんでいた私に、先輩の雲水が「坐禅をして禅定力ぜんじょうりょくをつけなくてはいけない。一切の理屈や思慮や分別に毒されないよう、公案をひたすら唱えて一つになれ。そういう精進を続けていけば、いつか『ああ、そうか』とうなずけるときが忽然こつぜんと訪れる」と言ってくれたことを思い出す。鈍な私など、この公案と一つになる工夫も容易ではなかった。ともかく工夫したものを師家に呈し、正しいのか間違っているのかを鑑別してもらうのである。
(上掲書 76頁)

 「公案と一つになる」という表現は、禅を少しばかり勉強している人はほとんど知っていると思うが、その真意は私にはいま一つ説明できなかった。禅定力とセットで説明すればいいのかと、いまさら教えられた次第である。ひょっとしたら私は既にこれに類する説明を読んだり聞いたりしたことがあるのかもしれないが、その当時はまだ禅定力が十分についていなかったのだろうと思う。はっきり言って、禅定の中でしか公案の工夫はできない。深く深く落ち着いていないと、仏教の智慧が働かないからである。

 「公案と一つになる」境地について、余計なヒントをちょっと出しておこう。自分が公案を考えているうちは、そこには自分が一つと公案が一つあって、いつまでも二つがある。それを一つにするには、どちらかを消さねばなるまい。ま、クレイジーでない修行者ならば、まずは自分を消すだろう。無我の境地に達すれば、今度は公案が消える。換言すれば、公案への思考的なこだわりが消え去る。我を殺すもきょう(この場合は公案)を殺すも活殺自在になれば、その公案は通るだろう。もっとも、それを目論んで何かをしても師家はしっかり見抜いているから、戦略的に通ろうとしても無理だ。

 で、いつまでも通らずに悩んでいる人のために、けっこう希望の光が見えて来るのが次の一節。

 かつて、ある公案をいただいて「これだな」と気付いて師家に解答したら、すげなく鈴を鳴らして否定された。それから半年、迷路に入った如く迷いに迷ってしまい、結局、最初に出した解答しかないと思いきってその解答を呈すると「わかったか」と師家は言われた。そこで私が「老師、最初これを解答した時に否定されたのはなぜですか」と聞くと、「お前さんが本当にわかっていたら、わしがいくら否定しても同じ答えを次の時にしたはずだ」と言われた。
 なるほど、師家はちゃんと弟子の境地がどの辺か見抜いているから、解答が合っているかどうかは二の次だとわからせてもらえた。模範解答の有無は重要なことではないのである。
(上掲書 74頁)

 言葉として答えがあっていても師家から否定されることがあるので、そんな場合は自分はまだ禅定力が足りないのかもと思ってひたすら坐禅に打ち込んでいればよいのだろう。年季が入っている修行者はそれなりのもの――オーラとでも言うのだろうか?――を持っているし、師家は言葉による答えよりも、修行者のたたずまいから染み出して来るもののほうを観察している。


 相変わらず好き勝手なことを書いているが、出家するつもりのない人は、こんなヒントに導かれて禅の世界を覗き込むのもありではないかと思う。「くだらんゴミを頭の中に突っ込みやがって!」と怒る師家もいるだろうが、「そんな奴が門を叩いてきたら、そんなゴミをきれいさっぱり掃除させるのがアンタの仕事でしょ。」と言い返すことにしよう。

 


 
 
 
 
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