カテゴリー「書籍・雑誌」の67件の記事

2013年3月22日

西原祐治『仏さまの三十二相』を読んで

 仏像にはさまざまな特徴が見られる。頭がパンチパーマみたいだったり、額の真ん中にほくろのようなものがあったり、手指の間に水掻きが付いていたり、足の裏に車輪の模様が描かれていたり、現在ではほとんど痕跡しか見られないが身体が黄金色に輝いていたり……。これらは仏だけがもつ特殊な三十二の相を表現したものである。


初心者~中級者向き。★★★★☆


 今回ご紹介する西原祐治『仏さまの三十二相―仏像のかたちにひそむメッセージ』は、それらの一つ一つの意味について紹介・解説した本である。著者が浄土真宗の僧侶だから、この解説では阿弥陀仏の誓願をもとに各相が意味づけられている。いわば、真宗の立場からの“読み”が書かれている本である。だからちょっと我田引水の感じがするし、話がだいぶ逸れていったような解説なのは否めない。しかしながら、三十二相を信仰という側面と結びつけている点は非常に重要であり、他宗の仏教徒は釈迦仏や薬師仏に関しても同じように信仰的側面から三十二相に思いを巡らせる必要があるだろう。

 かつてパソコン通信の時代に、仏教に関する某掲示板で、「仏教は坐禅を行ずるが本道であって、化け物みたいな仏像や菩薩像を拝むのは迷信だ。」という旨の発言を繰り返していた在家の禅宗信者がいた。観音には手が千本あったり、仏陀の舌は非常に大きくて顔を覆い隠してしまうくらいだからだと言う。まさしく即物的にしか考えられない人であった。(ま、方便としてのレトリックだったのかもしれないが。)

 千手観音に手が千本あるのは、もちろん多くの人々を救う働きを象徴的に示したものである。また、舌が広大なのは、この本によると「人々の生死の罪を除き、多くの仏に遇い、よい果を得るという特性」を意味しているそうだ。だが私としては、広範囲の人々(地獄から天界まで)に向けて舌を使う(=説法をする)、という意味の象徴的表現なのではないかと思う。このように象徴的なレベルで解釈していかないと、仏教の非常に大切な部分を取り逃がしてしまうだろう。

 ちなみに、手指に水掻きがあるのは、衆生が救いの手から漏れてしまわないためである。それを「如来は両生類か(蛙の一種か)!」と騒ぎ立てるのはじつに馬鹿げているし、あらゆる具体相を象徴的次元に置き換えて考える必要があろう。

 また、仏の身体が黄金色に輝いているというのは、仏が実際に物理的な光を放っているとはかぎらない。スポーツ選手であれアイドルであれ、時の人は“輝いて”見えるが物理的に光を放っているわけではない。このように、仏も“そのように感じられる”という文脈で捉えるのが正しいだろう。(霊的な光が見えると主張する人もいるだろうが、それを物理的に測定することはできないだろう。) 重要なのは、黄金色の光を荘重な威厳ある雰囲気として感じ取れるかどうかである。真宗の仏壇は金ピカでじつにケバケバしくて成り金趣味だと思うか、暗い心に希望の光を投げかけてくれていると思うかは、見る人次第である。人間離れした仏の姿に何を見いだすかは、ひとえにその人の感性にかかっている。

 この本によると、たとえば「この長い指(長指相)は、尊いものを敬い合掌して礼拝する心によって得られた」という。また、「跟が整っていること(足跟広平相)は、未来が磐石であること」を意味するという。私のようにいくら象徴的解釈を試みてみたところで、そんなことまでは仏典を繙かなければわからないだろう。その点ではちょっと役立つ本かなと思った。

 この本には、各相の特徴描写については出典が提示されているが、それぞれの意味については出典が記されていないのがちょっと残念である。私としては意味のほうを詳しく知りたいのだが、まあ啓蒙書としてはこのレベルまでなのだろう。

 龍樹作とされる『大智度論』(T1509_.25.0141b10以降)には、いろいろなタイプの布施をしたからこれら三十二相を得たいう因縁が書かれている。ということは、三十二相を見たら仏の布施の働き――それは自分にも向かっているはず――に思いを巡らせということなのである。

 仏のごとき人間離れした化け物になりたくない人は、くれぐれも布施行は控えてひたすら坐禅に邁進・精進することだ。(笑)



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2013年1月26日

『唯識 さとりの智慧 -『仏地経』を読む-』を読んで

 唯識仏教における悟りは、転識得智といって、迷いの識(心)を転じて仏の智を得ることである。『仏地経』は、その仏の智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)とそれらの拠り所たる清浄法界について書かれた経である。この経について書かれた本は(少なくとも最近では)他にないし、仏の四智について解説した本も他にないので、唯識仏教を学ぶ者は、一度は読んでおきたい本である。中級~上級者向き。おすすめ度★★★★★


 この本は三部構成になっている。第一章「唯識思想とは何か」は、導入的解説である。この経の歴史的位置づけをしている。第二章「『仏地経』を読む」は、経文(白文)・書き下し文・解説からなっている。第三章「唯識思想を深く学ぶ」は、著者が専門雑誌に投稿した三つの論文を編集したものが収められている。

 特に第三章はかなり難しい内容ので、以下、この本を読むに当たってあらかじめ頭に入れておいたほうがいいポイントを記しておこう。

 『仏地経』を訳した玄奘三蔵は、ほかにも唯識関連の経論を多く訳しているが、そのなかには複数の論師の説を取捨選択してひとつのまとまった論に編集する合糅ごうにゅうという手法をとったものがある。たとえば親光菩薩等造『仏地経論』や護法等菩薩造『成唯識論』である。そこには編集というかたちで玄奘の思想が入り込んでいる可能性があり、この本の著者はそのような観点から、唯識経典の中にある細かな批判的議論を理解しようとしている。

 具体的な思想内容に入っていくと、清浄法界が無為・無漏であり、四智が有為・無漏であるという点をまず押さえておくべきだろう。漏は煩悩のことであり、無漏は煩悩がないことを意味する。有為は作られたもの、無為は作られたのではないものを意味する。清浄法界はいわば最初から存在する悟りの世界だから無為であり、智はその清浄法界を拠り所として獲得される(心の中に作られる)ものだから有為である。

 これは、前五識(眼耳鼻舌身の五識)の転依した成所作智もまた無漏であることを意味するが、一方で、無著『大乗阿毘達磨集論』には十五界唯有漏(五識・五根・五境が唯だ有漏のみである)という説が出ており、この矛盾をどう説明していくかが唯識派のなかで議論になっていた。

 また、第三章の第一論文「唯識思想における仏身論と五法」では、自性身・受用身(自受用身・他受用身)・変化身の三身と、五法(清浄法界と四智)との対応関係に二説あることが論じられている。この二説に関して『仏地経論』と『成唯識論』では同様の評価(異説排斥)がなされているが、この書では『成唯識論』のものがとり上げられている。

 第一師の説では、清浄法界と大円鏡智には自性身を摂め、平等性智と妙観察智には受用身を摂め、成所作智には変化身を摂める。有為である智が自性(身)というのもちょっと変な話だが、これは「三身皆有実智」と言われているからである。これと同様の説は、戒賢『仏地経註釈』と安慧『大乗荘厳経論釈疏』に説かれている。

 『成唯識論』で正義とされる第二師の説では、清浄法界が自性身、大円鏡智所起の常遍の身が自受用身、平等性智は他受用身を顕現させ、成所作智は変化身を顕現させる。そして、妙観察智は、十地の菩薩に現われた他受用身において働く場合は他受用身に属し、地前の菩薩や二乗や凡夫の前に現われた変化身において働く場合は変化身に属する。

 第三章の第二論文は「唯識思想における四智の有漏・無漏をめぐる問題」であり、この問題は、十五界唯有漏師と関連しているという。無漏の五義「諸漏永尽・非漏随増・浄・円・明」についての解説なども紹介され、また、四智が如何にして有漏でないかについて『成唯識論』における三師の説がとり上げられ、『述記』を引用しつつ詳しい解説がなされている。

 第三章の第三論文は「『仏地経論』と『成唯識論』-玄奘三蔵における両書の翻訳の意図」である。一般には、第八識(阿頼耶識)⇒大円鏡智、第七識(末那識)⇒平等性智、第六識(意識)⇒妙観察智、前五識(眼耳鼻舌身の五識)⇒成所作智、という対応関係の八七六五説が知られているが、『大乗荘厳経論』『摂大乗論無性釈』のもともとの訳では前五識⇒妙観察智、第六識⇒成所作智、という八七五六説となっていたという。そして、玄奘が『仏地経論』と『成唯識論』の合糅という編集作業によって八七六五説を正義の座につけた、と著者は考えているようだ。

 この第三章はいろいろな論点が関わってきてややこしく、とても一度では理解できないし、三度くらい読んでだいたい言いたいことが分かるようなレベルの難しい論文だが、以上の要点をあらかじめ頭に入れておくことで、多少はすんなりと理解できるのではないかと思う。


 ここではとり上げなかったが、第二章の『仏地経』の解説は非常に平明であり、ここは中級者向きなので唯識仏教の悟りの最終段階に興味がある方にはぜひ一読をおすすめしたい。



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2012年12月27日

『はじめての「梵字の読み書き」入門』を読んで

 今回ご紹介するのは、静 慈圓『はじめての「梵字の読み書き」入門』である。

中級者向き。おすすめ度★★★★☆


 梵字の代表的な流派に、澄禅流・浄厳流・慈雲流がある。かっちりした形の刷毛書は澄禅流であるが、この本は毛筆書の慈雲流の梵字である。

 多くの梵字入門書は、梵字の字母(単音)の形を解説しただけで終わったり少し切継ぎ(単音を合成した字)について紹介しているだけである。この本もそれに毛の生えた程度のものだと言えるが、とりあえず導入部分だけは詳しく解説している。すなわち、字母の読み方・書き方からはじまって、母音符号の書き方が解説され、さらに18章の読み方・書き方まで最初の部分だけではあるがかなり詳しく列挙している。

 さらにご丁寧にあいうえお五十音に相当する梵字まで列挙しており、これだけで自分の名前を梵字で書けるようになるだろう。「しんじょう・りょうこ」のような名前は、切継ぎを知らないと書けないわけで、そんな名前書き遊び(?)をするのにも役に立つ本だろう。大蔵経を見ると、たまにさっぱり意味不明の梵字がならんでいたりすることがあるが、本書を読むと、それらも解読できそうな気分になってくるのではなかろうか。

 最後のほうには著者の梵字作品が掲載されている。安楽(sukha)、金剛(vajra)、心(citta)、仏陀(buddha)、歓喜(pramodya)、菩薩(bodhisattva)、不退転(avivartika)など、「ふーん、梵字で書くとこうなるんだ。」と思えるような語がたくさんある。たいていの本では五輪塔や卒塔婆にある仏の種字しか見かけないから、新鮮かもしれない。

 特に真言僧は、梵字は(種字としての)一字で完結するという思い込みが強いのではなかろうか。それは梵字の特殊な一面にすぎないのであって、梵字は他の言語と同じく第一にアルファベットの一種なのである。

 この本は、ひょっとしたら僧侶か駆け出しの仏教学者くらいしか実用的ではないのかもしれない。しかしながら、インド仏教の経論はみな梵字で書かれていたのだ。そんな経論に思いを馳せてサンスクリットの世界へと誘ってくれる本ではないかと思う。



 
 
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2012年12月24日

『史上最強 図解 般若心経入門』を読んで

 ずーーーーーーーーーっとブログ更新してませんでしたが、今回はどうしても紹介してみたい本があったのでご紹介。


頼富本宏[編著],下泉全暁・那須真裕美[著]
『史上最強 図解 般若心経入門』ナツメ社

 初・中級者向き。おすすめ度★★★★★

 般若心経の本は腐るほど出版されているが、経文の意味がだいたい分かっているレベルの人にはぜひ読んでもらいたい一冊。「はじめに」で編者は本書を、般若心経をさまざまな切り口から調理した「般若心経レストラン」と形容しているが、私としては、般若心経の解説なら何でも扱っている「般若心経のデパート」という感じだ。とにかく内容てんこ盛りで、一般人が知りたいと思うようなことは何でも揃っていて、これで1600円以下というのは本当にお買い得だと思う。


 般若心経の歴史的側面に多くのページが割かれている点は非常に有益である。一般には玄奘訳が元になった流布本の般若心経しか知られておらず、般若心経は一つだと思っている人が多いのだろうが、般若心経は複数の僧侶によって翻訳されている。また、日本でどのように般若心経が理解・受容され関わったかも、一般の般若心経解説本ではあまり言及されていない。そのような般若心経の基礎知識を手軽に得るのには便利な本である。

 
編者の頼富本宏は真言宗の人だから、空海の般若心経理解を中核に据えていると思われる。般若心経の本文にはまったく登場しない般若菩薩や文殊菩薩などの解説まであるのだが、これは空海の思想に従ったものである。

 般若心経は実践されなければならないだろうが、まず読誦という側面からはCDが付けられている。また、書写という側面からは写経の手本も付いている。


 現状では、般若心経の解説本を一冊だけ買うとしたらこれだ!!とイチオシする本である。




 
 

 
 
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2012年2月24日

理趣経関連の本を読んで

 久しぶりのブログ更新。理趣経の解説本の紹介記事はすでに書いていたと勘違いしていたので、だいぶ遅れてしまった。しかし、最近出た本も紹介できることになった。

   
  

 大栗道榮『図説「理趣経」入門』(読経CD付)は、ちょっと俗人におもねっているような感じがしてあまりお奨めではないが、眉に唾をつけながら読むぶんには大丈夫だろう。読経CDが付いているのでここでもご紹介した。初級者向き、お奨め度★★★★☆

 信頼が置けてお手軽な解説書として、松長有慶『理趣経』(中公文庫BIBLIO) がある。理趣経の深みを知るためには密教の基礎知識が不可欠であり、その点で素人向けの導入としてお手頃である。初・中級者向き、お奨め度★★★★★

 最近出た本として正木晃『読んで深まる、書いて堪能する「般若理趣経」』があげられる。この本には白文はあるが読み下し文がない。現代語訳は理趣釈も参照しつつ補足して訳してあるので、原文と比べて読むとちょっと戸惑うかもしれない。しかし、解説部分と一緒に読めば問題なかろう。正確に読むというよりも全体の雰囲気を掴むための現代語訳だと考えるとよい。たとえば自性清浄を「如来の眼から見れば清浄である」と達意訳している。なお、この本には曼荼羅の解説がない。

 最初の部分にルビ付きの理趣経がまとめて載せてあるので、ちょっと読誦したい人や経全体の構成を見通すのに便利である。また、最近は写経が流行っているからか、本の後ろの部分に写経のお手本がある。理趣経の第九段にも「受持読誦自書教他 書思惟修習種々供養 即為於諸如来広大供養」とあり、写経もまた供養になるのである。だが、この本には序説と初段と第十七段の百字の偈しか写経のお手本がないのがちょっと残念。初・中級者向き、お奨め度★★★★☆

 もうちょっと本格的な解説書としては、第一に、松長有慶『理趣経講讃』がある。中級者向き、お奨め度★★★★☆である。また、八田幸雄『秘密経典・理趣経』も基礎知識を固めるのには丁度いいのではないかと思う。これも中級者向き、お奨め度★★★★☆である。

 これまで理趣経は理趣釈とともに読まれてきた。この貸し借りの問題で空海と最澄が仲違いしたといわれる曰く付きの書物である。この解説があってこそ理趣経がわかるとされる本である。通り一遍の理解でいいのならば上に挙げた解説書で十分に間に合うが、理趣経を深く知りたいと思う人は必ず参照すべきではある。最近、『密教経典 -大日経(抄)・大日経疏(抄)・理趣経・理趣釈-』が出た。かつてのハードカバーが講談社学術文庫に収められたものである。中・上級者向き、お奨め度★★★★★


 読誦したい人は、お手本として使える理趣経のテープやCDがある。最近はMP3のダウンロードまであるんだね。CDでさえ大きくて邪魔くさいという時代になった。

  


 無料で楽しみたいという方は、YouTubeにも理趣経の読経(ただし一部だけ)がいくつかあがっている。これは「YouTubeで理趣経」にまとめた。

 


 
 
 
 
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2010年4月20日

『What Is Zen? 禅ってなんだろう』を読んで

 久しぶりに英語の勉強をしてしまった。(笑) 対訳にしてはやけに上手い英文だなあと思ったら、訳者は Jeffrey Hunter となっており、私はよく知らないのだが東京大学大学院で仏教学を修めた文学博士だそうである。どうりで上手いわけだ。細かく見るならば逐語訳でない部分もあるが、杓子定規な逐語訳は築誤訳にもなりうるわけだから、高校生の英語テキストでないかぎり、言葉よりも心を伝えることが重要である。それに、禅は「以心伝心」だしね。(笑) 冗談はさておき、もちろん英訳は原典に忠実といっていい。内容としては普通の概説であり、英語がある程度はできる初級者~中級者向きで、おすすめ度★★★☆☆くらいである。

 禅語を英語に訳すとどうなるか。私の感想としては、だいぶシンプルになるものだなと思った。これは、禅に深く関わっている人には物足りなさを意味するのかもしれない。しかしその物足りなさは、逆に言うならば、漢語を禅語としてそのまま使っている禅者の泥臭さを意味しているのではないかとも思う。禅の本質はずっとシンプルなのに――というか端的に“無”だ(笑)――この英語は禅の境地を示すものとしては味わいがないとか情趣がないとか言い張る禅者がいるとしたら、その禅者は禅の途中の境地に味著しているのだろう。菩提という山の頂上に往く道は複数ある。おそらく外国人向きの禅の登山道もあるに違いないのだ。

 反対に、これまでほとんど禅に関わってこなかった人に対しては、「禅の本質はシンプルでも貴方の心は複雑で微細に錯綜しているので、決して一筋縄ではいかない。簡単だと思ってすぐに分かったつもりにならないように。それはむしろ貴方のおつむがシンプルすぎるのだ。」と忠告しておかねばなるまい。模範解答のようなものを見つけて頭で分かっただけでは禅の本質は決して掴めていない。


 では、これから私が多少勉強になった箇所を引用してコメントを加えておきたい。まずは仏陀が迦葉尊者に法を伝えた拈華微笑についての解説箇所から。(「拈華微笑と言われて、ああ、あの出来事かと思い出せない門外漢は、顔洗って出直して来い!」というのがこれ以降の私のスタンスなので、そのつもりで。)

 悟りの伝承は本来「以心伝心」だから、言葉では説明できないのとするのが禅の立場である。だがどんな世界でも仕事の究極は本人自ら悟るよりなしそれを見て師匠が弟子の境地をうけがうものだ。
 お釈迦様は一念のはからいも思惑もなく、無心に華を差し出した。その華を見た迦葉尊者がやはり何も分別せず無心で華と一つになって微笑んだ。華を媒介にしてお釈迦様と迦葉尊者の本来の自己がピタッと一つになったのである。
(藤原東演(著),Jeffrey Hunter(翻訳)『What Is Zen?禅ってなんだろう―英訳付』)

 この解説だけでスパッと分かったならばこの本は読む必要がないが、この本には解説はこれだけだから、初心者が読んでも意味がさっぱりわからない。(笑) まあ、“無心”が仏陀から迦葉尊者へと飛び火する事態がどのようなものかが分からなければ拈華微笑は無意味だし、それがわかるために禅の修行者はひたすら坐禅を組むのである。

 では、その坐禅工夫とは何か。

 では公案の工夫とは何をどうしたらよいのか。始めて公案をもらった時、参禅するたびに否定されて、どう手をつけたらいいのかわからず苦しんでいた私に、先輩の雲水が「坐禅をして禅定力ぜんじょうりょくをつけなくてはいけない。一切の理屈や思慮や分別に毒されないよう、公案をひたすら唱えて一つになれ。そういう精進を続けていけば、いつか『ああ、そうか』とうなずけるときが忽然こつぜんと訪れる」と言ってくれたことを思い出す。鈍な私など、この公案と一つになる工夫も容易ではなかった。ともかく工夫したものを師家に呈し、正しいのか間違っているのかを鑑別してもらうのである。
(上掲書 76頁)

 「公案と一つになる」という表現は、禅を少しばかり勉強している人はほとんど知っていると思うが、その真意は私にはいま一つ説明できなかった。禅定力とセットで説明すればいいのかと、いまさら教えられた次第である。ひょっとしたら私は既にこれに類する説明を読んだり聞いたりしたことがあるのかもしれないが、その当時はまだ禅定力が十分についていなかったのだろうと思う。はっきり言って、禅定の中でしか公案の工夫はできない。深く深く落ち着いていないと、仏教の智慧が働かないからである。

 「公案と一つになる」境地について、余計なヒントをちょっと出しておこう。自分が公案を考えているうちは、そこには自分が一つと公案が一つあって、いつまでも二つがある。それを一つにするには、どちらかを消さねばなるまい。ま、クレイジーでない修行者ならば、まずは自分を消すだろう。無我の境地に達すれば、今度は公案が消える。換言すれば、公案への思考的なこだわりが消え去る。我を殺すもきょう(この場合は公案)を殺すも活殺自在になれば、その公案は通るだろう。もっとも、それを目論んで何かをしても師家はしっかり見抜いているから、戦略的に通ろうとしても無理だ。

 で、いつまでも通らずに悩んでいる人のために、けっこう希望の光が見えて来るのが次の一節。

 かつて、ある公案をいただいて「これだな」と気付いて師家に解答したら、すげなく鈴を鳴らして否定された。それから半年、迷路に入った如く迷いに迷ってしまい、結局、最初に出した解答しかないと思いきってその解答を呈すると「わかったか」と師家は言われた。そこで私が「老師、最初これを解答した時に否定されたのはなぜですか」と聞くと、「お前さんが本当にわかっていたら、わしがいくら否定しても同じ答えを次の時にしたはずだ」と言われた。
 なるほど、師家はちゃんと弟子の境地がどの辺か見抜いているから、解答が合っているかどうかは二の次だとわからせてもらえた。模範解答の有無は重要なことではないのである。
(上掲書 74頁)

 言葉として答えがあっていても師家から否定されることがあるので、そんな場合は自分はまだ禅定力が足りないのかもと思ってひたすら坐禅に打ち込んでいればよいのだろう。年季が入っている修行者はそれなりのもの――オーラとでも言うのだろうか?――を持っているし、師家は言葉による答えよりも、修行者のたたずまいから染み出して来るもののほうを観察している。


 相変わらず好き勝手なことを書いているが、出家するつもりのない人は、こんなヒントに導かれて禅の世界を覗き込むのもありではないかと思う。「くだらんゴミを頭の中に突っ込みやがって!」と怒る師家もいるだろうが、「そんな奴が門を叩いてきたら、そんなゴミをきれいさっぱり掃除させるのがアンタの仕事でしょ。」と言い返すことにしよう。

 


 
 
 
 
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2010年3月30日

『空海コレクション』を読んで

 いきなり空海の著作を読むのは難しいだろうが、ある程度は真言密教のことを知っている人ならば、座右に置いておきたい文庫本である。第一巻には「秘蔵宝鑰」と「弁顕密二教論」が収められており、第二巻には「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「般若心経秘鍵」「請来目録」が収められている。各々に原文と語釈と現代語訳とがある。これだけ揃って二巻で3000円程度で読めるのだから、実にお得である。中級者~中上級者向き。おすすめ度★★★★★
 

 

 
 空海の著作を読むとなると、昔は『弘法大師空海全集』(筑摩書房)くらいしかなかったし、当時でも各巻1万円程度はしていた。それにハードカバーの分厚い立派な本で、持っているだけで手が疲れた。(^^; その点、この『空海コレクション』は重要な著作を収めているのに値段が安いし、軽いので寝ころがって読むこともできる。もちろん軽く読めるような代物ではないが、心も身体もリラックスさせて思考が自由にはたらく状態にしてじっくりと読むべき本である。
 
 第一巻の「秘蔵宝鑰」は「秘密曼荼羅十住心論」の要約であるとされ、心の宗教的深まりを十段階に分けて解説している。これは空海の教相判釈であり、動物的生活→道徳的生活→ヒンズー教→声聞→縁覚→法相宗→三論宗→天台宗→華厳宗→真言宗 という階層を提示している。
 
 私としては法相宗を不当に低く扱っているように思えるのだが、悟りの内容をどれだけ直接に表現しているかという観点からは妥当な序列なのかもしれない。唯識仏教のいう転識得智で獲得される大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智は、密教でいう如来の五智(唯識の四智に法界体性智が加わったもの)とほぼ同じであり、唯識仏教はその目標への到達方法をできるだけ世俗の言葉に寄り添って「唯だ識のみ」と説いたのである。分かりやすさから言えば、密教は意味不明のまじないと同列であろう。もちろん私は密教の象徴体系を否定しているのではなくて、顕教としての教理を踏まえた上でないと象徴が本来の働きをしなくなるし、密教オンリーでやろうとする人々はしばしばまじない師に堕するだろうと言いたいのである。
 
 「弁顕密二教論」については、やはり仏身説が注目される。冒頭では化身・応身(報身)・法身の三身説が立てられ、前二者が顕教に、後者が密教に当てられるが、引き続き第二の見解として変化身・他受用身・自受用身・自性身の四身説が提示され、前二者が顕教に、後二者が密教に当てられる。
 
 私としては後者の説が分かりやすいように思う。空海が大日如来の法身説法という場合には、むしろ自受用身による説法を意味しているのではあるまいか。なぜなら自性身は空性の真如そのもので、説法のしようがないからである。一方、自受用身ならば、真如を受用するという智のはたらき(?)が感応道交的にそのまま行者に伝わってしまうということがありうる。仏教一般では応身・報身・法身の三身説をとっているし、自受用身と他受用身が報身に相当するので、空海の三身説は私にはどうもしっくりこない。
 
 
 第二巻の「即身成仏義」は、この身と真如とが一体化するためのコスモロジーを説いていると言える。一体化するとは、あるがままを完全に受け入れるということであり、それが正覚者(仏陀)になるということである。これについて私見を書いていくと大論文になってしまうので、一つだけ・・・。(^^;
 
 即身成仏の偈頌の冒頭、「六大無礙にして常に瑜伽なり」にある六大は、地・水・火・風・空・識であるが、空海においてはこれは必ずしも自然現象の性質を指すものではない。それぞれ本不生・離言・清浄無垢塵・因業不可得・等虚空・我覚を意味する。つまり、ここで六大無礙といっても現象だけに眼を向けていては駄目なのであって、現象の背後にある(または内在している)不生不滅の空性に目を向けてそれと一体化(すわなち瑜伽)していなければならない。無礙なのは身と六つの空理との間だとも言えるが、空理が相互に無礙という意味もあるのだろう。いやあ、この瞑想を成就しただけでも成仏しそうだ。かように一つ一つの言葉をよくよく考えていくと、なかなか深い味わいがある。
 
 次に「声字実相義」については、声字すなわち言葉が真如であるという世界を提示する。これももちろんただの世俗の言葉が真如というのではなく、仏陀の教えが真如へ導くということを意味している。六塵(色・声・香・味・触・法)の各々に文字の相(すなわち言葉の意味)があるのだから、密教の場合は感覚される世界そのものが如来の言葉であるという境地がありうる。
 
 「吽字義」で押さえておきたいのは、梵字の字義だろう。これは種字について考察する際に便利である。
 
 「般若心経秘鍵」は、般若心経を密教の立場から解釈したものである。さらに詳しい解説がほしい人はこちらの本がよかろう。
 
 「請来目録」は、空海がいかに多くの重要な経典や法具を持ち帰ってきたかが一覧できる。これにざっと眼を通すだけで「空海は偉人だ・・・」と思うだろう。
 
 
 まあ、書きはじめるときりがないのでこの辺でやめておくが、さすがは空海だけあって一言一句にまで深い意味が隠されており、すぐにいろいろと考えを巡らしてみたくなる。これは繰り返し繰り返し読んでみたい本である。
 
 
 

 
 
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2010年3月29日

『サンスクリット語・その形と心』を読んで

 
 私は最近、サンスクリット原音に近い発音で真言を唱えるという目標を立てていて、同時並行してサンスクリットでの意味を確認したいと思っている。そこでサンスクリット語を独学で勉強し直しているのだが、まあ初級者でもなんとか独習できそうな本を見つけたのでご紹介したい。初中級者~中級者向きで、おすすめ度は★★★★☆である。
 


 
 この上村勝彦氏は、仏教というよりはインド哲学全般の学者である。もともと語学は苦手であったらしく、「かつて自分が苦労したことを思い起こしながら学習の負担を少しでも軽減することができるように工夫しつつ、できるだけ平易に書いたつもりである。」(まえがき)という。私の場合は、20年以上前からサンスクリット語を勉強しようと思っていたにもかかわらず未だに初級者レベルを脱け出られない状態なので、なかなか心強いお言葉である。(^^;
 
 サンスクリット語は活用がめちゃくちゃ多くてすぐに挫折してしまう。この活用形はすべて覚えるべきものではないようだが、ある程度は覚えておかないと辞書が引けない。おそらくは平易なサンスクリット文を読むことで重要な活用形は頭の中に自然と入るのだろうが、「私は、仏教のサンスクリット原典を読みたいのに、なんで外道の思想や物語で頭をいっぱいにしなければならないんだあ~!」とも思ってしまう。その点、この本では短い例文がちょこちょこ載っていて、まずはこれを丸暗記していくつもりでいれば、活用形もだいぶ頭に入りやすくなるのではないかと思う。
 
 
 サンスクリット語を独習しようとすると、大抵は名詞の格変化のところでいきなり挫折してしまうのだろうが、さらに動詞の活用も種類が多い。ま、英語でもその他の言語でもよく使う単語は不規則に変化するものだが、たった10種類の動詞活用型を覚えるのが大変な苦労である。というのは、時制に現在・過去・未来形があるのは許せるとしても、完了とアオリストという過去形の一種もあるし、パラスマイパダ(能動態)とアートマネパダ(反射態)といって、動作が他者に向かうか自己に向かうかで動詞の形が違う。そして、命令形や願望形まで人称ごとに活用形を覚えなければならない。サンスクリット語は学習者を挫折させるためにわざと難しくしてあるんじゃないかと思えるくらいである。(苦笑)
 
 文法の学習にもやはり辞書は必要だが、よい日本語のサンスクリット辞書がなかなか見つからない。しかしまあ、この本の末尾には簡単な語彙集と動詞語根一覧表が付いている。また、サンスクリット語の辞書のひき方も簡単に解説してあり、初心者にとっては有益である。なにしろサンスクリット辞典はアルファベット順になっていないので、見出し語の配列に慣れるまで大変だし、 ṃ や ḥ はこの配列の原則から外れているので、その点を予め知っておくと辞書も多少は引きやすくなるだろう。
 
 
 ま、あんまり「難しい、難しい、……」と言って人のやる気を削いでしまってもいけないが、いずれはサンスクリット原典を参照しながら仏典を読んでみたいと思っている人は、このあたりの本から始めるのがいいのではないかなと思った次第である。その次に菅沼晃の文法書と講読に進むのがいいだろう。
 
 
 
 
 

 
 
 
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2010年3月14日

『印と梵字 ご利益・功徳 事典』を読んで

 
 同じような本を出しているなあと思いつつ、気になって読んでしまった。本書前半の印の部に関しては、左ページは『大正新脩大蔵経 図像部』から諸仏諸尊の図が引用され、左ページ上段に印の名称とイラストと真言(ひらがな表記)が載せられ、同下段に主な出典,印の結び方,由来と功徳が解説されている。後半の梵字の部では、上段に諸仏諸尊の種字(梵字)と読み方(カタカナ表記)と原音(ローマ字表記)があり、下段には、種字の由来,意味と功徳が解説されている。初中級~中上級 おすすめ度★★★★★
 


 
 前半に関しては、同じく学研の『仏尊の ご利益・功徳 事典』と内容的に重なる部分が多いように思えるが、やはり今回紹介している本は印の解説に重点がある。印は仏の徳性を象徴的に表わしている。したがって、単に手指を組んで印の形をつくればいいのではなく、その形を通して諸仏諸尊の徳性を観想しなければならないだろう。慣れてくれば手指を組んだだけで無意識領域で自動的に観想してしまうことになるが、最初はそうはいかない。そこで、最初は印の象徴的な意味を心に刻みつける必要がある。

 そのための解説としてこの本は十分かと言われると、???となってしまうが、これはとっかかり、ないし入門的な本だから、本格的にやりたい人は正式に弟子入りするなり、あるいは経典を読破してその諸仏諸尊の徳性を完全に把握してしまうことである。その内容すべてが各々の印の中に凝縮していると考えるとよい。これは真言や種字に関しても同じであり、要は経典をしっかり読んで内面化していないと、密教の行法は“ただの猿まね”になってしまうだろう。しかし綱を握っているのが仏であるとすれば、それなりの芸をすることはできる。中身がどれだけあるのかは別として。
 
 密教の阿闍梨に弟子入りせずに個人でやることに関しては、一般的には推奨されない。だが、もし在家の人で印を結んだり真言を唱えたりするつもりなら、とくに自分が惹かれる如来や菩薩のものに限ればそれほど大きな問題は生じないだろうと思う。高位の仏や菩薩の場合、臨終のときの阿弥陀仏などは別として、低いレベルの者はほとんど相手にされないからである。つまり個別的なご利益はあまり期待できない。しかしながら、それでも諸仏諸菩薩の徳性を思って印を結んだり真言を唱えたりする人には秘かに功徳が生ずるだろう。反対に、諸天への祈りはご利益が容易に得られる場合もあろうが、あとあと厄介が起こるかもしれない。というのは、祈る者自身の欲が足を引っ張るからである。
 
 こんな喩えはどうだろう。下品な男が貴婦人にアプローチしてもまったく相手にされない。だが、自らの品性を磨いて礼儀正しく控えめにアプローチすれば、多少は振り向いてくれるかもしれない。お付き合いが叶うまでにはいかないかもしれないが、微笑みくらいは返してくれるかもしれない。まあ、それが至福の喜びということもあるわけで、恋愛は必ずしも相手を獲得することがゴールではない。反対に、いかに下品な男でも、飲み屋のネーチャンにアプローチすると簡単に応じてくれる場合もある。だが、ここで自分はモテるなどといい気になってはいけない。その先に何が待っているか・・・・・は私よりも経験者に聞いてほしい。(笑)
 
 密教の行にはそんな一面があるので、「清浄なるものへの信」が第一に必要である。無欲にして受けられる恵み以外は期待すべきではない。この無欲とは、無欲であれば当然これだけの恵みがあるはずだという欲も捨てているという意味である。恵みすなわちご利益は、仕事への対価でも取引でもない。純粋に向こうから与えられるものである。というわけで、最も清浄な者である如来か、その次の菩薩にターゲットを合わせているのが無難なのである。
 
 第二に、「経典などで学習したもの以上には何も得られない」と心得ておくべきである。ターゲットを絞るために如来や菩薩の名前や姿を知ったとしても、それがどこに存在しているのかが分からなければ実際に狙いを定めることはできない。清浄とはどちらの方向にあるのか、それが経典などでの学習である。とにかく印を組んで真言を唱えていればいいのだろうと思って“あさっての方向”を向いて祈っていても効果は期待できない。慈悲深い仏なら、あるいは忿怒の形相で現われて恐怖心を喚起して正しい方向へと向かせてくれるのかもしれないが、あまり期待しないほうがいい。
 
 なお、印や真言それ自身に経典を超えた深い意味があるのだと教える密教僧も多いとは思うが、それは経典が読みきれていないということだろう。経典は「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」なのである。たとえいつも眼の前にあっても、その深い真実の意味に出会うことは困難である。
 
 
 本書後半の梵字の部に関しては、児玉義隆の梵字の本はこのブログでも以前に紹介しており、内容的には重複してしまう。だが、摩多点画(子音につける母音符号)や梵字の切継ぎ(合成文字の作り方)や字義の一覧表があるので、これがついていない本を買った人なら決して損はない。
 
 また、種字の由来を知ると、種字と諸仏諸尊の徳性を密接に関連づけることになる。そうなると種字を見ただけで諸仏諸尊の働きを連想してしまうので、種字がそのまま諸仏諸尊であるという感じになるだろう。単なる珍しい文字記号ではなくなる。
 
 とくに真言には種字が含まれていることがあり、その種字の字義を確認するのも重要ではないかと思う。たとえば、阿字の字義は本不生である。これは不生不滅の意味である。さて、不生不滅の意味を深く理解している人はどれだけいるだろうか。それは如来と菩薩だけであると言い切ったら元も子もないが、般若経や中観思想などを勉強して多少なりとも知っている人は多いだろう。その認識と重ねて初めて阿字観が成立する。不生不滅を深く理解している人のみが深く阿字観を修することができる。
 
 そのほかの種字に関しても同様で、たとえば、虚空蔵菩薩や宝生如来のタクラ(trAH)字は、その字義からいって如如(t),離塵垢(r),寂静(A),涅槃(H)の合成であり、真如に接して煩悩の塵を離れ、寂静を体験して涅槃に入る、という意味と考えてよかろう。このような意味を瞑想しながらタラク字を眺めていると、この字には無限の力が備わっているように思えてくる。
 
 
 
 いろいろと書いているときりがないのだが、このようにしていろいろと考えると、けっこう使いでのある本だとわかる。ま、素人考えで間違った解釈をする場合もあろうが、上の二つの注意点を心に留めておけば、自分の解釈が多少のズレてしまっても阿弥陀如来に向かうはずが阿閦如来のほうにいってしまったというくらいで、悪いことが起こるというようなことはなかろう。むしろ、いろいろ考えているうちに仏教的センスが磨かれるのではないかと思う。
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
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2010年1月29日

『入門 哲学としての仏教』を読んで

 仏教の哲学的側面を高く評価している私としては、この本は非常におすすめ(おすすめ度★★★★★)である。専門用語がしばしば出てくるので、一通りは仏教の哲理を知っていないと理解困難な部分も多いと思われ、中級~中上級者向きである。だが仏教の門外漢でも、十分には分からないながらも現代の哲学的な主題に仏教思想がどのように答えうるのかを知る手がかりは得られるだろう。これをきっかけとしてもっと深く仏教思想を学んでみたいと思うようになるかもしれない。
 


 
 以下、私の難解な(?)私見が混ざった紹介になるので、この本よりも難しい内容かもしれない。(汗)
 
 章立ては以下のごとくである。
序 仏教はとても斬新な哲学である
第一章 存在について――本体なき現象の生成
第二章 言語について――その解体と創造
第三章 心について――深層心理の奥にあるもの
第四章 自然について――自己と環境の哲学
第五章 絶対者について――絶対無の宗教哲学
第六章 関係について――その無限構造の論理
第七章 時間について――絶対現在の時間論
結 「哲学としての仏教」への一視点

 この順番は、仏教思想を基本からおさらいするのに好都合である。仏教にはさまざまな学派・思想があり、相互に対立するような部分もあるにはあるが、その根本的部分をしっかりおさえながら学んでいくと、仏教を全体として理解できるようになる。
 
 「存在について」の章では、説一切有部の存在論(五位七十五法)が紹介されている。これは仏教を語るうえでの基本語の集成であると言えよう。そこから世界像が構築されるのであれ、それらの基本語が空の教えによって否定されていくのであれ、とにかく仏教的視野がこの基本語をもとに展開する。
 
 「言語について」の章では、五感によって知覚されるその現場(の世界)から対象の存在を再考することを提起する。対象が最初にあるのではなく、色や形や音や匂いなどの知覚内容が最初にあって、それらを素材にして、言語を認識の枠組みとして対象を主観的に構築しているのである。
 
 そのような主観的に構築された世界を、心の構造という観点から究明したのが唯識仏教である。だが、その深層心理たる阿頼耶識よりももっと根本的なところに仏性(あるいは如来蔵・真如)が存在し、心の深みを探求していくと、そこには、万物が密接に関わっている真実なる世界が展開してくる。
 
 「自然について」の章では、最初は唯識哲学を拠り所として自己と環境との関係性が論じられているが、ここは多少問題がある。私としては、阿頼耶識の相分は外界ではなくて各人の心と見なすべきと考えているからである。カント哲学の用語を使うなら、個体が外界と実質的な関係を持つのは物自体においてであり、阿頼耶識の相分は、その物自体に触発されて生じた(主観的)現象だと思うからである。ここで“主観的”といっても、それは客観を全く反映していないという意味ではない。もし全く反映していないのならそれは仮象であるが、現象は人間の認識形式に基づいて物自体を反映している情報である。その情報が正確であればあるほど物自体への対処は有効なものとなろう。
 
 私見では、カント哲学における物自体は、現象学的世界観の中で言えば真如に対応するものである。ただしそれは、物自体も真如もともに多様な現象を生じさせる根源に位置づけられるというだけであって、仏教では一切の実体を認めない(真如もまた空である)から、物自体と真如とはその存在様式が全く違う。しかしながら、主観に与えられる現象としての情報世界を越えて他者と関わるためには、そのような絶対者的な何かを仮定する必要もある。
 
 「関係について」の章では、華厳哲学が紹介されている。私としては、物自体が認識できるとしたヘーゲル哲学と比較してみるとよいのではないかとも思う。個は、他を情報として主観的知のなかに取り入れるのではなくて、関係性のなかですでに他を取り入れている。他との関係性の中でこそ個が個として成立するのだが、唯識的な立場から言えば、「主観の中でそう思っているだけ」ということになるのかもしれない。(苦笑) インド成立の唯識哲学は多分に瞑想的・観念的だが、華厳哲学は中国成立であり、その背後には強い現実主義が浸透している。だから、他と具体的に関係する事態をうまく捉えている哲学であるとも言えよう。、
 
 「時間について」の章では、道元の「有時」の説明が平易になされていて感心した。この章では絶対現在を根本において時間を考えるべきことを論じているが、哲学的な時間論としてはいま一つインパクトがないような気がする。
 
 この本は「入門」となっているように、哲学としては導入的な紹介でしかない。仏教哲学の紹介としては、少ない紙幅でかなり成功しているとは思うが、初心者向けに手取り足取りとはいかない。だが仏教的な知的世界へのいざないとしてはうまくいっているのではないかと思う。 
 
 最後に、どうでもよいことだが、著者はときどき語呂合わせで遊んでいる。

仏教では「兎角とかく亀毛きもう」をとかく持ちだす。それはともかく……
唯識哲学が……日本にも将来されて、南都六宗なんとりくしゅうの一つとなった。……当時のインドの最新の哲学が、ほとんど時を隔てずに、なんと南都において研究されるようになったのである。
ま、新書判にてムズカシイ本を書くときの一つの楽しみなのかもしれない。(笑)
 
 
 
 

 
 
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