カテゴリー「禅宗」の3件の記事

2009年6月23日

修証不二

 tenjin95さんのブログ(つらつら日暮し)の「「本来無一物」の宗乗的参究」という記事を見ていて、ちょっとインスピレーションを得たので、この記事を書くことにした。あいかわらず“初心者さんお断り”の小難しい話だろうが、ネットなどで仏教用語の意味を調べながら、大意だけでも把握していただければ幸いである。

 これは、中国の禅宗が北宗禅と南宗禅に分かれる時の話である。五祖弘忍が衣鉢を継がせるにあたって弟子たちに「自ら本性般若の智を取り、各々一偈を作りて我に呈せよ」と命じた際、弟子の上座たる神秀と後に衣鉢を継いで六祖となる慧能とが偈を呈した。


神秀の偈は、
  身はこれ菩提樹 心は明鏡の台の如し
  時時に勤めて払拭して 塵埃を有らしむることなか

一方、慧能の偈は、
  菩提 本より樹無し 明鏡も亦た台 無し
  仏性は常に清浄なり 何処いずくにか塵埃有らん

又の偈としては
  心はこれ菩提樹 身は明鏡の台のたり
  明鏡は本より清浄なり 何処にか塵埃に染まん

『正法眼蔵』によると、
  菩提は本より樹無し、明鏡も亦た台に非ず
  本来無一物、何れの処に塵埃有らん


 両者の決定的違いは、神秀が分別のレベルに留まっているのに対して、慧能は無分別の境地にまで達しているという点にある。その全体像をイメージしやすくするために、以下に簡単な図を作ってみた。

┌――┬――┐
|塵埃|明鏡|……言葉と分別の世界(現象の世界)
├――┴――┤
|仏性常清浄|……言葉と分別とを超えた世界(本性の世界)
└―――――┘

 明鏡は菩提(悟り・覚り)の象徴であり、塵埃は煩悩の象徴である。そして、仏性常清浄は空の理を表わしている。鏡が目の前の対象を映し出す働きであるように、菩提は世の実相を映し出す心の状態である。塵埃が鏡の働きを妨げる物であるように、煩悩は菩提の働きを妨げる心の状態である。(菩提を妨げるのは煩悩障のほかに所知障もあるが、ここでは煩悩で代表させておく。)そして、慧能の三つの偈を比べれば分かるように、仏性常清浄とは菩提という明鏡の本性たる清浄のことであり、それが本来“無一物”であるのだから、それは空っぽ(すなわち空)なのである。


 そこで、神秀の偈は以下のような意味になるだろう。身は、菩提という果実(仏果)の生ずる樹である。心は、磨かれて菩提という明鏡になっていく土台である。その明鏡の働きを妨げる塵埃たる煩悩が生じてきたならばその時々に煩悩を拭い去るように勤めて、菩提の働きを障りなく作用させるべきである。

 菩提へ向かう修行のやり方としては正しい。だが、どうやって塵埃を拭うのか。神秀は塵埃の有無ばかり気にかけて、この世ないし心の現象面のみに関心が向かってしまい、明鏡を明鏡として成立させているその本質までは表現しきれていない。


 一方、慧能は、菩提という明鏡の本質をその素材たる身や心に求めない。銅板も鏡になれば水も鏡になるのだから、必ずしも土台となる素材そのものが鏡の働きの根源であるわけではない。むしろ「何も無い」という性質・特徴が、菩提という明鏡の本質だとする。鏡は、その基盤となる銅板などが自らの姿を徹底して顕さないからこそ、自らよく対象を映し出せるのである。鏡が鏡として機能する本質は、この“無”にある。菩提も同じく、心が空っぽである時にこそ対象の実相をよく映し出せる。

 磨かれた“無”によって明鏡が明鏡たりうるように、認識された空によって菩提は菩提たりうる。「明鏡は本より清浄」であるように、心もまた「本より清浄」という性質を受け容れてこそ菩提となる。心が何かの知識を得るのではなく、かえって「本より空であること」を悟る程度に応じて、心の鏡が明瞭に対象を映し出すようになる。

 自己自身の空を体得すれば、「煩悩はその根本において空である」ということも認識できるようになる。菩提と煩悩の違いは、心が空を受け容れるか受け容れないかの違いである。煩悩は払拭されるべきものではなく、空によって清められて菩提に転換すべきものである。無である空には、塵の付きようもない。塵はせいぜい空中に漂っているだけだが、その塵さえも空すなわち諸行無常・諸法無我の理によって分解されて無となる。菩提という明鏡もまた、そのような“無”をその本性としている。塵という有は“無”に支えられつつそれを拒否して成立しているが、菩提という明鏡は“無”に支えられつつそれを受け容れて成立している。この“無”に達することこそが慧能の偈の言わんとすることである。


 これに関連して、煩悩即菩提についてもコメントしておこう。煩悩即菩提の煩悩とは、菩提の鏡に映し出されているかぎりでの塵埃である。修行者は、煩悩をこのように対象化する以前の、煩悩との原初的な同一化状態に留まっていてはならない。煩悩に呑み込まれたままであってはならず、菩提の鏡に照らして煩悩を煩悩として“あきらめる”(明らかに知る)ときに、“即”が生じて来る。未だ煩悩の形をとったままであっても、そこには僅かながらも菩提が染み込んでいなければならず、それはまさしく煩悩の中に空の理が浸透していなければならないということである。煩悩の単なる現状肯定ではなく、煩悩が少しずつでも悟りの方向へ動いていくダイナミズムとして、煩悩即菩提がある。

 私はこれを如来蔵ないし仏性の観点からも捉えてみたい。煩悩即菩提は、始覚(悟りの始まり)である。完全な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に到達するのにはほど遠い。しかしながら、完全な悟りへと向かうダイナミズムが生じてしまったときには、すでに完全な悟りが修行者の根底ないし背後に貼り付いている。本覚ないし初発心時便成正覚と言われるものがそれである。最初に発心した時点で正覚など成就しているはずなどないのだが、この“可能性として貼り付いているもの”が本覚であり仏性である。そして、だんだんと成長していく菩提が如来蔵であるといってもよいかもしれない。(この場合の如来蔵とは、「如来の胎児」の意味であって、もし如来蔵を「如来の母胎」という意味にとるならば、仏性と同じ位置づけである。)

 ところで、煩悩は世界のあらゆる場所に生まれて来る。すなわち塵埃は至る所にある。また、そこに僅かながらも菩提が入り込んでいるならば、菩提もまた至る所にある。菩提という鏡に塵埃が付着しているのだから、そこに映し出された世界は、半ば煩悩の姿をし半ば菩提の姿をしているのは当然だろう。一方、煩悩と菩提を一枚の心として成立させている空そのものは、言葉と有(存在のイメージ)とを離れて寂静なので、世界のいずれの所からも離れている。そのような寂静なる本来無一物の世界でこそ、「本より塵埃がない」と言い切れるのである。


 さて、曹洞宗では「修証不二」と言われ、「即心是仏」と言われる。以下の解説が道元禅師の意をどれだけ汲み取れているわからないが、上の図に当てはめてみると、仏性常清浄や本来無一物が証、菩提の鏡から塵埃を払う行為が修ということになる。これは不二である。空の理、空の働きがあってこそ菩提が生じるからである。もしも空を全く知らずに坐禅をしていたら、何十年坐っていても修のみで完結し、決して証は得られないだろう。証に裏づけられてこそ、修行が修行として成立する。また、煩悩も菩提も心の中に生ずるものだから、この修行は即心である。そして、そこに仏(すなわち空の理と空の智)が浸透してこそ、修行が修行として成立する。

 それとは反対に、証や仏が全く分からずに修証不二や即心是仏を理解しようとすれば、なんであれ修行の行為がそのまま悟りの証だと勘違いしたり、煩悩の心がそのまま仏だと勘違いしたりすることになる。だから禅宗では、「本来無一物」だの、「主人公」だの、「本来の面目」だの、「仏性」だの、「無」だの、とにかく「空」と同等のものに目を開かせようとする。仏道修行を志した時点ですでに仏性はごそごそと動き始めてはいるものの、空を眼前にしてありありと体験した見性の後でこそ、煩悩を解消していく修行が本格的に始まるのである。悟後の修行こそが大切なのであって、見性は大目標ではあっても最終目標ではない。

 北宗禅は見性の前の修行のごとくであり、塵埃を払おうにも遅々として進まない。しかし、南宗禅もまた見性しただけで完全に悟ったかのような勘違いに陥る。たとえ空が本当に分かっても、それたけでたちどころに煩悩が消え去ってしまうわけでもない。そこで、空が本当に分かったのなら、その空に基づいて身も心も調え直す必要がある。
 
 
 


 
  
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2009年6月 5日

『参同契』解説(1)

 
 
 このブログで『宝鏡三昧』の解説記事を書こうと思い立ち、その前に必要かと思って『洞上五位頌』を最初に論じ、さてこれで『宝鏡三昧』に行けるかと思ったら、やっぱり『参同契』の解説を先にやっておこうなどと思ってしまった。まあ、『参同契』は石頭希遷せきとう きせんの著作であり、曹洞宗では最も重要な経典のひとつであり、その真義をより高く祖述したのが『宝鏡三昧』と言われているから、あらかじめこれを解説しておいて損はあるまい。
 
 
 さて、『参同契さんどうかい』とは、参差しんし (=諸現象)と同一(=空性)に契合している、という意味である。参差とは、もともとは「長短の等しくないさま。そろわないさま。」「入りまじるさま。入り組むさま。」「くいちがっているさま。矛盾しているさま。」といった意味である。諸物、諸事、諸現象は見かけ上はじつにさまざまであり、また入り組んで成立しており、ときに矛盾している。一方、同一はそれらの諸物などに通底する同一の本質を意味する。仏教的見地からそれを端的に言えば、縁起ないし空性ということになろう。そして、それらがうまく合わさるのが契合。すると、参同契とは「色即是空 空即是色」や華厳思想でいう事理無礙にほかならない。
 
 これだけでも頭に入れて参同契を読んでいけば、その伝えんとする意味に容易に近づけるようになるだろう。なお、今回の参同契は四回に分けて解説する。
 
 
 

竺土大仙心 東西密相附
 竺土大仙ちくど だいせんしん 東西密とうざいみつ相附あいふ 

 竺土はインド。大仙は偉大な仙人で、釈迦牟尼のこと。心はこの場合には「核心」の意味にとりたい。もちろん精神的な核心部分という理解でよい。東西は中国とインド。これは禅宗の祖である菩提達磨が第二祖の慧可に法を伝えたことを意味する。そして、この「密に」が最も重要な言葉で、あえて解釈すれば「無我ないし空において」の意味である。
 
 
 
人根有利鈍 道無南北祖
 人根にんこんに利鈍あり どうに南北の祖なし

 第五祖の忍弘のあとは、禅宗の流れは、鈍根(劣った素質)の者を対象とした漸悟の宗風をもつ神秀の北方禅と、利根(優れたい素質)の者を対象とした頓悟の宗風をもつ慧能の南方禅とに分かれる。しかし、利根・鈍根やそこから生ずる方法の違いは人間の側にあるのであって、仏道すなわち空の実践には南祖も北祖もない。ここには、各地方・各宗派によって違いのある具体的な修行方法や修行過程よりも、もっと本質的な部分に目を向けるべきであるという含意がある。
 
 ところで、この部分に関しては、五祖忍弘が六祖慧能に対して「嶺南人無仏性」と言ったエピソードが提唱などで言及される。そして、このエピソードは『正法眼蔵』「仏性」でも取り上げられている。(それに関しては「正法眼蔵 5」が多少は参考になろう。)
 
 道元の意図とは微妙にズレてしまうかもしれないが、私としては以下のように解しておきたい。「お前は何処から来た?」と問われて、「嶺南(すなわち中国南方)から来ました。」と答えるのは常識的である。だが、「私は作仏したい(仏陀になりたい)」と言ったならば、事は常識の範囲を越えてしまう。解説のためにあえて言葉を使って余計な応答してしまうと、「作仏したいのなら、お前は嶺南からではなく、空・無我からやって来ているのだよ。いったい誰が仏をすのだね?」ということになろう。だが、五祖忍弘はそんなことまで言わない。「嶺南人無仏性」とだけ答える。これは、「嶺南人よ、無が仏性である。」とも解釈できそうだ。あるいは、「自分は嶺南の人だ(または一般に、自分は○○人だ)と思っている分別的・反省的人間の中には仏性は無いぞ。」という意味だとも解せるだろう。仏性は、そんな自己規定を離れたところにある。禅では「父母未生以前の本来の面目」ということが言われる。確かに肉体は父母から生じたかもしれない。しかし、そんな自己規定をする心のあり方では悟りは開けない。もっと自己の根源に立ち返らなければならない。
 
 人格の根底にある空・無我すなわち「道」は、言葉では伝えられないがゆえに「密に」伝えられる。それゆえ禅は、徹底した体験主義になる。
 
 
 
霊源明皓潔 支派暗流注
 霊源みょう皓潔こうけつたり 支派暗に流注るちゅう

 「霊源」は魂の根源、あるいは人格の根源とでも言おうか。もちろんそれを追究すれば、無我や空に至る。「明」は「妙」とする解説もあるが、次の「暗」との対照で「明」としておきたい。「皓」を「皎」と作る場合もあるが、いずれも月が白く光るさまを表わす。「流注」は流れ注ぐの意で、変じ動じて絶え間がないこととされる。
 
 心の根源と言っても存在の根源と言ってもよいが、禅定が深まってくると心は晴々と明るくさっぱりしてきて、それと同時に世界もそのように見えてくる。心の根源に立っているときは、物事がはっきり見えていて動じないのである。ところが、そのような心の根源から離れると、思いはあちらこちらの対象に流れ込み、心が細かく分かれて統一性がなくなり、目が晦まされる。
 
 
 
執事元是迷 契理亦非悟
 しゅうするももとこれ迷い 理にかなうも亦さとりにあらず

 「事」は個々の物事であり、ここでは枝派を受けている。「執する」は固執するの意味。私としては、ここは「事に固執する元々は迷いである」という意味に解釈したい。また、事と対比されているからここの「理に契う」は、空ないし無我の理に(たまたま)合致するの意味に解したい。その理たるや、言葉になってしまった理。本来の空ではない。たとえば、般若心経の言葉は説明できても悟っているとは限らないようなものである。
 
 「理に契う」については別の解釈もある。それは、一切を空じたままであっても、それは禅の悟りではないという解釈である。般若心経の言葉で言えば、色即是空に留まっているのは未だ完全な悟りではなく、空即是色として、空を基としながらも物事の世界に立ち戻るのが本当の悟りである。
 
 
 
門門一切境 回互不回互
 門門もんもん一切のきょう 回互えご不回互ふえご

 「門門」とは、各々の感覚器官。それらが捉える対象を「境」という。「回互と不回互」は、相依(相互依存)と別々を意味する。ここでは感覚器官とその対象とが相依であり、かつ別々であることを意味するが、相依関係は自他・主客のみならず夫婦・親子・師弟などを考えるとわかりやすい。互いに相手があってこそ自分がそれとして存在するが、相手がなくても自分の存在が全く無くなるわけではない。『正法眼蔵』「坐禅箴」でも回互と不回互を解説しているが、こちらでは、縁(すなわち対象)なくして照らすという不回互に言及している。
 
 
 
回而更相渉 不爾依位住
 してさらに相渉あいわたる しからざればくらいによって住す

 「回して」は、相依関係が成立していること。「さらに相渉る」とは、その相依関係が発展することである。発展しなければ、その相依関係は同じ性質のまま留まる。それを「位に住する」という。
 
 「馬鹿を相手にしているとこっちまで馬鹿になる」という言い回しがあるが、これも(馬鹿の)位に留まってしまう好例と言えよう。こちらの見方や対応のしかたが変わらないと、相手の状態も変わらない。それは逆もまた然りで、相手が変わらないとこっちも変わりようがないことも多い。そこで、感情に引きずられて相手と同じレベルにまで落ちてしまう。「向こうがこう言ったからこっちはこう反応する」というこれまでの“持ち札”では、この膠着状態からは脱け出せない。回互だけでは変化無し、不回互といって単に関わらないだけでは、再び関わったときには元の木阿弥になる。
 
 しかしながら、そこをあえて不回互の状態から別の見方、別の関わり方をする。すると、相手が変わる場合もある。馬鹿も馬鹿なりに進化するということだろうが、それ以上に重要なのは、こちらの関わり方が変化することで相手に対するイメージや感情もまた変化するという側面である。相手が客観的にまったく変化しなくても、こちらのイメージや感情が変化すれば、そのイメージや感情に囚われていた心理状態からは脱することができる。解脱とは、そのような自分自身の心に囚われている状態から脱することである。
 
 
〔つづく〕

 
 
 


 
  
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2009年5月19日

洞上五位頌

 このところ洞山良价の『宝鏡三昧』について記事を書こうかと思って何冊か読んでいたのだが、その前に同じ作者の洞上五位頌の説明をしておいたほうがよさそうなので、まずはこの解説から始めたい。

 何冊か本にあたってみたところ、著者によって、または諸注釈によって語句の解釈はもちろん全体としての捉え方も微妙に違っているようだ。そこでこの解説では、私の解釈や見解を主として述べるとともに、違う解釈や見解も適宜補足していきたい。テキストは『世界古典文学全集36B 禅家語録2』(筑摩書房)を利用したが、読み下し文は私の見解にしたがって一部改変してある。


 五位とは、正中偏、偏中正、正中来、兼中至(または偏中至)、兼中到の五つの境位であり、この頌は当時流行した「五更転」のリズム(三・七・七・七)に合わせて作られている。ほぼこの順序で修行の境位が漸進的に高まっていくと言えるが、平田高士は「この五位は畢竟一個の禅体験を五方面から仮に説示したにすぎない」(『講座 禅』第六巻 筑摩書房.72頁)と見なしている。
 
 
 

正中偏
三更初夜月明前 (三更初夜月明の前)
勿怪相逢不相識 (怪しむなかれ 相い逢って 相い識らず)
隠隠猶懐旧日妍 (隠隠として猶お旧日の妍を懐く)

 三更とは、およそ現在の午後11時または午前零時からの2時間をいう。初夜は、現在の午後8時ごろ。月明の前とは、満月や下弦の月などが出る前。この暗闇は、第一に無明に喩えられる。しかしながら同時に、暗闇では何も区別ができないゆえに無差別平等をも暗示する。人が深い眠りにあるときには彼から苦しみが消え去っているように、この最初の段階も無意識であるがゆえに覚っているかのようである。

 この時は真っ暗で、お互いに逢っても尋ねなければ相手が誰か判らない。修行の文脈では、ここで逢うのはもちろん自分自身である。無意識の中にあると、たとえ自分自身に逢っていてもそれが自分だとは思わない。

 心の中では(すなわち隠れて密かに思うには)別のものを自分自身と見ているのだ。妍の訓読みは「うつくしい」だから、まだ昨日の美しい姿を心の中に懐いているという意味になるだろう。次に“老婆”が出てくるのだから、ここで何が言いたいのかお判りですね。(^^;


 正中偏は、普遍の中の個別、平等の中の差別、理の中の事、空の中の色、勝義の中の世俗……。人はすでに最初から真実の中にあるのだが、まだその真実が覚知されていない段階。というより、この段階では個別の事象さえもしっかりとは見えていない。まだ何も見ていないから、無意識のうちに真実に休らっているのだ。個別の姿を前にするとたちまち迷いの世界に落ちてしまう。

 これは本覚とも言える。人はもともと覚っているのだが、それに気づいてはいない。他方、その言葉を曲解して修行をしないのもいけない。本覚ないし自性清浄を知ったとき、自分は悟りの心が芥子粒ほどもない煩悩の塊だ、と気づく必要もある。「自性清浄 客塵煩悩」と言われるが、自分は自性のほうではなく客塵のほうだと認識すべきである。悟りの心を形成する原材料は最初から揃っている。だが、すべてはまだ混沌として鉱石のごとくである。
 
 
 

偏中正
失暁老婆逢古鏡 (失暁の老婆古鏡に逢う)
分明覿面更無真 (分明覿面てきめんなるも更に真無し)
休更迷頭還認影 (更に頭に迷って還た影を認むることをやめよ)

 失暁は盲目を意味する。それはずっと夜中のままで物が見えない(真実を認められない)ことを暗示している。つまりこの老婆は無明の闇に沈んだままなのである。そういう老婆が真実を映す鏡、すわなち仏性に出逢う。鏡は磨かれて自己を全く空しくするからこそ他を如実に映し出せる。かくのごとく空なる心は正しく対象を映し出す。

 覿面は、まのあたりに見ることだから、はっきりと明らかに自分の姿をまのあたりにして、さらに他に真実はない。(「更」を「別」につくるテキストもある。) このキビシイ現実! しかしこの老婆は盲目だから、自らのうちに仏性として真実を映し出す働きがあるのに、それを見ようとはしないようだ。

 そこで一喝。さらに迷って頭であれこれ考えて昔の自分の面影を求めるのはやめよ、というキビシイお達しである。(^^; あるいは、眼前に明確な鏡像があるのに、黒い自分の影を見ようとしているのかもしれない。黒い影のほうがそこに昔日の自分の美しき姿を重ねられるから、老婆にとっては心地よいに違いない。たまたま真実が見えてしまっても、多くの人々はやはり影のほうに向いてしまいがちだ。

 これは『首楞厳経』巻四に出ている演若達多えんにゃだった の喩え話を下敷きにしているようだ。

演若達多、忽ちに晨朝に於いて、鏡を以て面を照し、鏡中の頭の眉目見るべきを愛するに、己が頭に面目を見ざることを瞋責しんせきして、以て魑魅なりと為し、ゆえ無くして狂走す。
これは、鏡中の自分の頭に眉や目があっても顔の輪郭がないと言っている騒いでいるのだろう。たしかに目だけの顔なら妖怪変化である。(笑) しかし、覗いた鏡が小さかったのかもしれない。真実はそのほんの一部だけしか見えてこない場合も多い。鏡中の自分の顔を覗き込んで目尻の小皺を見つけて、「妖怪ババアになってしまった!」と狂走する女性も・・・(以下略)。ヾ(u_u; オイオイ ま、自分の真実の姿を直視すると、多かれ少なかれそういう反応を示すものである。(苦笑)

 この演若達多の喩え話は、如来蔵に関連して妄想の出所を明らかにする説法のなかで提示されたものである。したがって、正中偏を本覚、偏中正を始覚と位置づけてもよかろう。たとえ見る者が自分の姿を見ようとしなくても、古鏡は変わることなく真実を映し出し続けている。明るくなれば鏡に映る姿は誰にでも見えるのだ。ただ無明の闇に覆われた盲目の老婆にはそれが見えずに妄想の影を追っている。汝はすでに一部なりとも真実の姿を見たのだから、これ以上影を追うことなく真実の姿を直視せよ――これが偏中正の境位だと言えよう。

 しかし、ここは別の解釈もできる。「影」を鏡に映っている自分の姿と見なせば、そうやって現在の自分の姿にも囚われてしまうことを避けよ、という意味にもなる。「昔はよかった」と「今はダメだ」は、両方とも頭で考えていることである。そんな自己イメージに囚われていてはならない。まさにそのイメージをつくり出している主体へ戻ってくるべきである。


 偏中正は、個別の中の普遍、差別の中の平等、事の中の理、色の中の空、世俗の中の勝義……。諸行無常・諸法無我の理が、古鏡に映った個別の事柄に現われているのである。そして、変化してやまない個々の事柄を現われるがままに受け取るのが禅の基本である。ただただ受け取ることによって空の理を体得していく。
 
 
 

正中来
無中有路隔塵埃 (無中にみち有り 塵埃を隔つ)
但能不触当今諱 (但だ能く当今のいみなに触れず)
也勝前朝断舌才 (た前朝の断舌だんぜつの才にすぐれり)

 無とは、空、勝義、涅槃の世界である。そして、そこからこの娑婆世界にやって来る路がある。すでに無となって一切の煩悩を断じた場所からやって来るのだから、その人は煩悩の塵埃からは離れている。

 当今の諱とは、在位の天子の名である。そして、「当今の諱に触れず」は、正位(すなわち禅的普遍)に腰をおろしてしまわないという意味に解釈されている。しかし私としては、世俗の名利には触れないという意味ではないかと考える。あらゆる者を帰順させ、あらゆる者に恩恵を与えても、自らを王者とはしない。その本質は無我なのだから、「偉大なる我あり」という世俗の価値には触れることがない。

 しかも、無言無説にしてあらゆる者を説き伏せてしまう。それは最も雄弁な者にも勝る。

 断舌才:隋代の李知章は非常に雄弁家で、彼が話をすると他の人たちは舌を巻いたので、断舌才という異名をとったと言われている。断舌という句で「無言無説の正位に証を取ってしまうこと」を表わすと言われている。ここでは大悲の行に働き出るゆえに断舌の才に勝れていると言われるのである。(『世界古典文学全集36B 禅家語録2』筑摩書房)
この「断舌」の解釈は、完全に寂静の世界に休らってしまう小乗の涅槃を意味している。しかし、「前朝の」があるから、やはり李知章を指していると見なしたほうが自然である。言葉の力を超えたものは、無の中からやって来る。雄弁家の言葉は聴衆の心を喚起するだろうが、無、空、勝義からやって来たものは、その心をもっと強力に動かすことができる。


 正中来は、涅槃に住せずにこの世に還って来る段階を意味する。これこそが真の慈悲行である。可哀相だから助けてあげようというのは、必ずしも慈悲行ではない。空の理が個別的事象にやって来るのが正中来なのだから、個別的事象にこだわる心をいつまでも取り払わないのは、必ずしも慈悲行とは言えないのだ。人々からこだわりの足かせを解いてやるのが慈悲行であり、菩薩行である。
 
 
 

兼中至
両刃交鋒不須避 (両刃のほこさきに交わるをすべからく避けざれ)
好手猶如火裏蓮 (好手、なお火のうちの蓮の如し)
宛然自有冲天気 (宛然、おのずから冲天ちゅうてんの気有り)

 「両刃」とは、個別と普遍、差別と平等、事と理、色と空、世俗と勝義……。これら両者はセットになっている。そして、両側の刃が鋒先で一つに交わるように、両者が一体となる境地がある。(一般には鋒と鋒とを交えるという解釈をしているようだが、私はそうはとらない。) この境地は、色即是空、生死即涅槃などと言われている。両者が一体となることを避けるべき理由はない。色を捨てなければ空になれないとか、生死を捨てなければ涅槃に入れないということばない。

 ここで「火裏蓮」とは無染汚の蓮華の意で、真の好手は好手にすら囚われない無垢のもの、という意味になるようだ。(cf.東慶寺) 物としての蓮華は火にくべれば燃えてしまうが、仏教でいう蓮華は真如や慈悲を意味するのであって、火中の蓮華はいわば智慧の火によって煩悩が付着しない状態を意味する。好手は、色にとっての空、空にとっての色など相対するものを指すが、悟りの中にあるとき、それらは相手を自分の対立物とは見ない。色は色、空は空であり、また色と空は絶対的に異なるが、色あっての空、空あっての色でもある。

 宛然とは、あたかも、さながらという意味。冲天とは、高く天に上るの意。したがってこの句は、さながら天を衝くほどの気高さをもっている、の意味になる。いわば最低のものと最高のものが交わってしまうのだから、その全体の姿は、地と天を繋いだかのような勢いをもつだろう。


 兼中至は、色と空などの両者を兼ねそなえた中で彼岸へ至る、という意味になろう。この境地は無住処涅槃といっていい。だが、もう一つ先に究極の境地がある。

 ちなみに、これを偏中至とするテキストもあるが、その場合には個別的事象の中で彼岸へ至るというような意味になるのだろうし、私としては順番を変えて偏中至は正中来の前に持っていきたい。偏中正の段階は、個別的事象の中に空を見出す努力をしているが、まだ徹底できずにいる。しかしこの修行が完全なものに至ったならば、それは色即是空のように事と理が紙の表裏のように完全に一枚になるのである。そして、そのようなところから空即是色としての正中来の境位が生まれてくる。
 
 
 

兼中到
不堕有無誰敢和 (有無に堕せず 誰か敢て和せん)
人人尽欲出常流 (人人ことごと常流じょうるを出でんと欲す)
折合還帰炭裏坐 (折合せつごう、還って炭裏たんりに帰して坐す)

 もはや「有と無」のような二元対立には堕することがない。そんな究極の姿に誰が敢えて合わせようとするだろうか。合わせようにもその対象が見つからない。いや、むしろ向こうのほうから変幻自在に和してくるのだ。

 常流とは常に流転する世界のことだろう。人々はことごとくこの有為転変の世界から脱しようと一生懸命修行する。

 だが、結局は還って来てもとの炉辺に坐すことになる。折合は「つまるところ」の意。修行の最後には一生懸命さえもなくなり、ただただ最初から何もなかったかのごとくに肩の力を抜いてあるがままの生活をしていくことになる。

 兼中到は、もはや修行者の気迫すら消え去っている。「あるがまま!」と気張っているように見えるうちは、まだ悟りの最終段階ではない。本当に彼岸に到達した人は、あまりにも平凡な中に紛れている。それを凡人・俗人と見間違えるのは、見る者が俗人の心しか持っていないからである。“事”から目を離さずに“理”を深く究めた賢者ならば、「こいつ只者ではない」とその非凡さをきっと見抜くことだろう。
 
 
 
 
 
 
 さて、こうやって見てくると「洞上五位頌」は「十牛図」にも匹敵するほどの修行案内だと思えてきた。五段階と十段階では描写のきめ細かさにおいて十牛図にはかなわないが、仏道修行の基本的な考え方はこの五つで十分に把握できる。個々の仏教用語について解説していくときりがないので、この記事では最低限の語句解説と修行的位置づけの解説とに限定したが、おそらくどの本やネット記事よりも解りやすい解説になったのではないかと自負している。これでも難解だと思うようならばまだ基本的知識の学習が不十分なので、各自で研鑽していただきたい。
 
 
 
 



 
 
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