カテゴリー「般若心経」の22件の記事

2010年3月31日

般若心経解説(16)不増不減

 

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(漢文読み下し)
増えず、減ぜず。
 
(梵文和訳)
(一切法は)不足しているということもなく、満たされたということもない。

 
 この一節は、むしろサンスクリット原典をもとに考察してみたい。というのは、上の梵文和訳にも見られるようにサンスクリットと漢訳では意味に微妙なずれがあるからである。
 
 この一節のサンスクリットの原文は、nonA na paripUrNAH である。nonA は na UnAH が連声したものだが、この Una は、「不足している」という意味の形容詞である。また、paripUrNaは、pari-√pRという語根から派生した「満たされた」という過去受動分詞である。漢訳では前半が不減に当たるのだろうが、では後半が不増に当たるのかといえば微妙なところであろう。それに、サンスクリットと漢訳では、不増不減の順序が逆になっていると言える。漢訳の場合は、より日常的な文脈での訳語を選択したのではなかろうか。
 
 
 過不足(増減)という観点から分かりやすい例をあげよう。それは、何かを受け取るという事態である。原始仏教の坊さんならば托鉢で受け取る食べ物だし、最も広くとるならば自分が体験している自分の人生そのものを考えてもよいし、その中間形態として自分の給料の額でもよかろう。現実には、自分の受け取ったものがすべてである。そして、あるがままを受け取るのが仏教的態度と言えよう。ところが、現実以外に余計な考えを付け加えるから、それと比較して自分は不足だとか満たされているとか考えることになる。現実以外の何か不変の基準を置くから、それに照らして増えたとか減ったとか考える。
 
 漢訳での意味を考える場合には、この例で十分だろう。一切法(すなわち諸現象としての物事)それ自体はあるがままであり、また次第に変化していく。ところが、そこに変化しない一定の基準を観念上で付け加えるから、ものが増えたとか減ったとか言い出すのである。あるがままをいつも受け入れている人には、増えたとか減ったとかいう主観的な基準による観念がない。だが、現実には何らかの変化があるのだから、それに応じて認識も変化してくるだろう。
 
 この箇所は、増益と損減という意味で解説されることもある。増益とは、本当は無い何かを付け加えることであり、これは般若心経の用語で言えば、法(現象としての物事)に自性(実体性)を付け加えることである。損減とは、実際には存在するのにそれも存在しないと見なしてしまうことであり、これは諸現象としての物事までも否定して虚無主義に陥ることを意味する。対象を観察するときに増益も損減もなくあるがままに受け入れることにより、一切法の真実が現われてくる。
 
 
 以上の説明で、一般的な解説としては要点を尽くしていると思う。だが、私としてはこの一節にはもっと別の意味が籠められていると考える。それは、修行不足と修行の満了という観点からの解説である。
 
 一般的な言い回しにもあるように、修行は“積む”ものと考えられている。だが、般若心経の文脈では、実体としては煩悩も無ければ修行も無い。だから、実体としては“無い”修行を積み上げるということはあり得ない。そこで、修行に関する発想法を根本から転換しなければならないのである。

 悟りとは、あるがまま(真如)をそのまま受け止めていく境地だから、どこかに悟りの世界というものがあって、修行によってそこへ移動するというものでもないし、また、お金を貯めて何かを買うように、積み上げてきた修行の成果と引き換えに得られる“何か有るもの”でもない。
 
 煩悩を滅して悟りとやらを代わりにそこに置いたのなら、それは、煩悩の心が悟りという心にその姿を変えたにすぎない。もちろん、煩悩も菩提(悟り)も心のはたらきであるから、これは心が汚れた状態から清らかになったことを意味する。しかし、煩悩が滅するために煩悩でない心のはたらきを積極的に作り出すのでは、煩悩と菩提という二元対立ができてしまうだけである。(これは本当は菩提というより煩悩の対治(反対のもの)としての善心である。)
 
 一方、菩提とは、「煩悩はその本質が幻のごとく儚いものである」という認識に照らされて心の中から煩悩が常に消滅していくような方向性を生じさせる透徹した智慧のはたらきである。菩提そのものには、積極的に「これだ」と何か特定の存在を主張するような内容はない。むしろ反対に、「結局それは何でもない」という真実をただただ明らかにしていく智慧のはたらきである。具体的な内容がないのだから、菩提を否定することはできない。
 
 煩悩が“有る”のでもなく、菩提が“有る”のでもない。煩悩を叩き壊そうと思っても、叩き壊すべき実体的な存在は初めから無い。だから、「まだこれだけのものが壊せてません」とか「これだけ完璧に壊しました」という修行の成果は存在しない。実体としての何かが有るとか無いとかいう文脈には当てはまらないからこそ、仏道修行は成立しているのである。『金剛般若経』ふうに表現するならば、「修行が修行でないとき、それが修行である。」と言えるだろう。
 
 煩悩は幻のごとくであり、菩提もまた特定の想念ではない。いずれも積み上げることはできないから、煩悩がその本質において増えたり減ったりすることはないし、菩提がその本質において増えたり減ったりすることもない。修行不足というのは、修行を想念か何かのように見なして積み上げ可能だと考える立場である。修行が満了したというのは、仏陀の世界という想念を立てているからである。仏陀の境地は、常に想念が消滅しつつある状態へと心をチューニングしている境地である。仏陀の境地という究極のところでは、一切は幻のごとくして実体的なものは何も無い。
 
 そもそもこの世に存在しているかぎり、さまざまなものに刺激されて想念は常に生じてくる。だが、仏陀や菩薩の想念は清らかだろう。汚れた想念は煩悩として第一番にその幻性が見抜かれて消滅しているからである。だが、清らかな想念もまた、それが幻であることにかわりはない。それらもまた最終的には消滅すべきものだが、衆生済度の役に立つからこそ仏陀たちによって仮に維持されている。浄土は、空性を明らかにするため方便化土であり、究極のところは無である。その無へと最もスムーズに、そして安楽に移行できる想念世界が浄土なのだと言えよう。
 
 『華厳経』では「初発心時 便成正覚」と言われる。発心すればすでにその時点で悟っている。では、修行は無用なのか。修行不足などということはあり得ないのではないか。これは一面で正しい。空性は、煩悩にも菩提にも初めから浸透しているのであり、それに気づくか否かが重要なのである。それに気づかなければ煩悩となり、それに気づけば菩提となる。煩悩の中にいてそれに気づかなければ修行不足ではあるが、気づいていれば修行不足ではない。煩悩の出現はしばらく続くが、その時点での煩悩は刻々と滅しつつある。これは過不足なく修行が進行している状態である。一方、たとえ菩提を得てもそれを想念と化してそれに囚われてしまえば、それはやがて菩提から外れてしまうだろう。物事が常に変化しつつあるかぎり、その物事の空性を受け入れる菩提もまたその内容が刻々と変化している。修行生活はこれでオシマイということにはならないのである。
 
 
 
 最後に、全体的なことをコメントしておく。この一節の主語の「一切法は」は、むしろ「修行に関する一切法は」の意味にとるのがよいのではないかと思う。この箇所全体としては、「一切法には空性という特徴があり、それらには不生不滅という側面と、不垢不浄という側面と、不増不減という側面とがある」という意味に捉えるとよい。不生不滅の場合は、主に世俗的な存在に関する空性の真実であり、不垢不浄の場合は、主に修行しつつある事態での空性の真実であり、不増不減(不足してもいないし、満たされてもいない)の場合は、主に悟りの境地での空性の真実である。
 
 
 


 
〔つづく

 
 
 
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2010年3月28日

般若心経解説(15)不垢不浄

 

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(漢文読み下し)
垢ならず、浄ならず、
 
(梵文和訳)
(一切法は)汚れているということもなく、汚れを離れているということもない。

 
 不垢不浄は、マクス・ミュラー本と榊本では“amalA na vimalA”となっているが、岩波本では“amalAvimalA”となっているらしい。『般若心経を梵語原典で読んでみる』ではこれを“amala avimalA”と解しているが、マクス・ミュラー本との文法的整合性を考えると、両方とも複数形で“amalA avimalA”と解したほうがいいのかもしれない。文意としては三本とも同一である。
 
※榊本:榊亮三郎著『解説 梵語学』(真言宗高等中学)〔新版として榊亮三郎原著『新修 梵語学』(永田文昌堂.1973年)〕
 
 
 ここでいう垢とはけがれである。宗教では衛生的な意味での汚れはほとんど問題にされないが、文化的な汚れは非常に重視される。食物のタブーのみならず様々な行動にタブーが設けられ、それらを犯さない生活が清い生活だと信じられている。おそらくこの一節はバラモン教なども念頭に置いていたのだろうが、大乗仏教の立場からの小乗仏教批判と理解したほうがいい。汚れた世俗を離れて身を律するだけで悟りの境地と言えるのかと。また、戒律にがんじがらめに縛られた状態でほんとうに他者救済ができるのかという問いかけにもこの一節は答えているように思える。個々の戒律に縛られているかぎりその先には進めないのだと。
 
 さらに、精神的な意味での汚れ、すなわち煩悩も意味しているのだろう。心を徹底して浄めるのが仏教であり、煩悩が完全に無くなった境地が涅槃である。だから、汚れ(煩悩)から完全に離れた境地に住するのはよいことのように思える。しかし、自分は汚れを離れているのだという観念に捉えられてしまえば、その修行者は空性から外れてしまう。
 
 浄土教では「厭離穢土 欣求浄土」と言われるが、浄土に行きっぱなしであってはならず、穢土に戻ってきて衆生を救済するのが本来の大乗仏教である。穢土を厭離したままであってはならないし、浄土に愛着してもならない。穢土も厭わず浄土も望まず。両方にこだわりをもたず、両者を超越しているのが空の心なのである。
 
 煩悩がある状態よりは煩悩の無い状態のほうが善く、煩悩の無い状態よりは煩悩にこだわらない状態のほうが善い。神秀と慧能の漢詩がこれをよく表わしている。
 
 〔神秀〕
 
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
 
 
 〔慧能〕
 
菩提本無樹 明鏡亦非臺 (菩提もとより樹無し 明鏡もまた台ならず)
本來無一物 何處惹塵埃 (本来無一物 何れの處にか塵埃を惹かん)
 
 
 神秀のほうは、煩悩の塵をひたすら払い、その塵が完全に無くなったところが悟りの心境だという。一方で慧能のほうは、塵がつく自我というものがそもそも無いのが悟りの心境だという。般若心経が言わんとするのはもちろん後者である。全くこだわりの無い空の境地にいると、清い状態にある場合もあれば、清い状態でなくなる場合もある。だが、汚れと共にあっても常にその汚れから遊離しているのが、こだわりの無い境地である。本物の聖者は、為すべき仕事が終わるまでは汚れた状態を全く厭わず、為すべき仕事が終わったら、さっさと塵を払って清い状態に還るだろう。
 
 仏教では清浄という言葉がよく使われる。しかし、これは汚穢と同一平面で対立する清さではない。汚れているか否かというレベルを全く超越しているのが清浄である。それ自身としては何も無いのだから、むしろ清さのほうに近い。そして、全般的に見るならばおそらくは清さの方へと進む傾向にあるのだろう。なぜなら、煩悩熾盛で汚れた生活よりは清らかな生活のほうが人間本来の自然に近いからである。その自然状態は、主観的には「無」の境地である。重要なのは、表面的または一時的な状態を超越したこだわりのない境地なのである。
 
 この一節は、「一切法は空性という特徴が(ある)。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れているということもなく、汚れを離れているということもなく、……」と続いてくるから、垢浄の主語は「一切法は」であろうと思われる。一切法そのものはまったく中性的であり、人間の側で好き嫌いを言うから様々な法が汚れていると思えたり清らかに思えたりする。もちろん我々は人間存在という限定のなかで生きているのだから、実際問題として汚れは存在するだろう。しかし、ここで問題にしているのは空の境地であり、その境地にあっては現象的な意味での汚れは問題ではないのである。
 
 あらゆる法に対して汚れているとも清いとも思わないならば、いかなる法にも自由に対処できるだろう。そのような自由な境地が般若心経では説かれている。いかなる事柄に対しても自由自在に対処できるならば、自分を救うのも他者を救うのもずっと容易であろう。
 
 

 

 
 
 
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2010年1月27日

般若心経解説(14)不生不滅

 

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(漢文読み下し)
 
生ぜず、滅せず

(梵文和訳)

(一切法は)生じたということもなく、滅したということもない。


 
 
 我々の日常的な判断からすると、事物は生滅しているし、きれい汚いの区別はあるし、増えたり減ったりする。だからこの経文の一節は特殊な事柄を言っていると考えられよう。文脈からいって、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は直前の句、「自性が空であるという特徴」を具体的に説明したものである。したがって、六つの「不」によって何もかもが否定されているわけではなく、自性(すなわち恒常不変の実体性)の存在が否定されているのである。

 喩えによって説明すると、「兎の角はもともと存在しないから、兎の角が折れることはない」という論理で考えると分かりやすいだろう。ここで、兎の角に相当するのが自性である。兎の角は、それがあると信じた者の心の中にだけ存在し、そのイメージの中でのみ折れることがある。だが、それは実際にはナンセンスなのである。では、まったくの虚無から兎の角というイメージが出てくるのだろうか。おそらくは兎の耳を角と思い違いしたのだろう。だから、兎の角があると信じ込むのには一定の理由があるし、また、兎の耳が曲がったときには兎の角が折れたと騒ぐだろう。しかしながら実際には、兎の頭にはもっと柔らかくて形が容易に変化して、しかもある一定の形を保っている耳があるのだ。兎の角という意味ではそれはまったく存在しないが、兎の耳ならば存在している。
 
 一般的にいって、我々は事物の中に兎の角のごときかっちりとした恒常不変の何かを想定しがちである。たとえば、我々は明日も明後日もその後もずっと生きていると信じている。そして、その前提の上で死を間近にしてあたふたする。だが、これはほとんど無意識的に起こっていることである。一方で、我々は意識的には兎の耳のごとくしなやかで変化に富んだ物的・心的な現象を受け容れている。たとえば、人間は生まれてからどんどん姿が変化して80年くらい生きればほぼ間違いなく死ぬと知的には理解している。だから、兎の角のごとき虚構・幻想の存在をあからさまに提示されても、それを非現実的だと理性的に反論できる。しかしながら、この非現実的な無意識的観念に影響されて苦しんでいることもまた確かなのである。
 
 
 さて、不生不滅は自性に関して言っているのであって、現象としては世界は生滅している。そして、何かが生じた段階で我々はそこに「何かが有る」と考え、それが永遠に続くと暗に仮定してしまっている。だから、それが滅したときに慌てふためくのである。かくのごとき“変わらぬものが存在する”という暗黙の前提に関して、「そんなものは生じたこともないし、だからこそ滅することもない」とこの経文では教えている。「それは幻だ」と言っているようなものである。

 実際、事物は生滅している。それは、さまざまな因縁(原因と諸条件)によって生じたり滅したりしている仮の存在である。そして我々は、そうやって現われてきたものに言葉というラベルを貼って、そこに「○○が有る」と存在性を与える。我々が日常的に意識しているのはこのレベルの世界である。ところがそう意識する背後に、そのラベルによって表示されている対象を実体化して捉えようとする心の働きが生ずる。そのときには、もはや事物がさまざまな因縁によって存立しているという事実を忘れてしまい、自分の付与した言葉でいくらでも対象を操作できると勘違するようになる。そんな言葉(がつくり出した対象)に関して、「そんなものは不生不滅だ」「幻のごときものだ」とこの経文は宣言しているのである。
 
 では、そのラベルを剥がしたらどうなるか。そこには因縁によって生起した対象が如実に現われてくるだろう。だが、その成立要件としての因縁の各々も、我々の付与したラベルではないのか。そのラベルも剥がし、そこに見出された因縁の各々のラベルもまた剥がし、そうやってどんどん剥がしていくならば、微細な構成要素に関しても「○○が有る」とは決して言えなくなる。だが、かといって全くの無だとも言えない。そのようにして事物の自性(すなわち実体性)の空を徹底していったところに現われてくるものを真空妙有という。

 真空妙有もまた別の意味で不生不滅である。「何かが有る」というラベリングを徹底して否定したところに真空妙有はあるのだから、そこでは「何かが生じた」とか「何かが滅した」とは決して言えない。しかしながら、頭の中にある恒常不変の実体とは違って、形なきものの集合体がそこに流れつつ有るというのも確かなのである。この宇宙が完全な虚無から生じ、また完全な虚無へと還っていくのなら別だが、少なくとも何百億光年の単位で考えないかぎり、真空妙有は新たに生じたこともなかっただろうし、それが滅することもないだろう。

 これは真如と呼ばれたり諸法実相と呼ばれたりしている。これは恒常不変の実体ではないが、延々と続いていくのだろう。不生不滅は、事物における自性という点では皆無を意味する。だが一方で、まったく自性をもたながゆえにそこに“何か”を捉えることができず、したがって“何か”が生滅するという生滅の相を超えて真空妙有が存在していることをも意味しているのである。




 
 
 
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2010年1月 9日

般若心経解説(13)舎利子 是諸法空相

 

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(漢文読み下し)
 
 舎利子 是の諸法は空相なり
 
(梵文和訳)
 
 ここではシャーリプトラよ、一切法は空性という特徴が(ある)。
 

 
 法(ダルマ,dharma)は非常に多義である。そこで、まずは法の意味をざっと見ておこう。中村元『佛教語大辞典』(東京書籍)から、関連箇所を抜き出すことにする。
 
  
 
 dharmaは、√dhRに由来し、「たもつもの」特に「人間の行為をたもつもの」が原意。
 
インドでの一般的な意味としては、
①慣例,習慣,風習,行為の規範。
②なすべきこと,つとめ,義務,ことわりの道。
③社会的秩序,社会制度。
④善,善い行為,徳。
⑤真理,真実,理法,普遍的意義のあることわり。sdatyaと同一視される。
⑥全世界の根底。
⑦宗教的義務。
⑧真理の認識の規範,法則。
⑨教え,教説。
⑩本質,本性,属性,性質,特質,特性,構成要素。
⑪論理学では、述語・賓辞。
 
アビダルマ教学においては、「能持自相故名為法(svalakSaNa-dhAraNAd dharmaH 物事のあり方の本質を把持するから法という)」と解釈され、それ自体の本性をたもって変化せず、認識や行為の規範となるものと考えられている。
 
⑩意の対象。思いの内容。考え。六境の一つ。心のあらゆる思い。思考の対象となるもの一般。心の対象。心が対象としてとらえるもの。(『般若心経』『金剛般若経』大正8巻749上,『中論』23:8,『維摩経』大正14巻541中,550下)
⑪事物。存在。存在しているもの。もの。具体的個別的な存在。対象。もののありのままのすがた。五位七十五法とか五位百法とかでまとめられるもの。(『中論』7:30,『唯識三十頌』大正31巻60上,『成唯識論』大正31巻1上)

 
 
 法にはまず「規範」という意味がある。そこには社会的規範も宗教的規範も含まれている。前者の規範であれば、習慣,慣例,社会的義務,社会的秩序,社会制度(法律)などの意味になるだろうし、後者の規範であれば、善,善い行為,宗教的義務などの実践的規範と、真理,真実,理法,教えなどの認識的規範になる。
 
 アビダルマなどの学問的な仏教では、特に認識的規範が重視されるだろう。「諸行無常,諸法無我」と教えられているのならば、一切のものは固定的な状態をもたないはずである。しかし、現実には一切は無秩序に変化・展開するのではなく、特定の状態を保っていたり、一定の法則にしたがって変化していったりする。そこには“事物の法則”がある。
 
 事物はそれぞれに固有の特徴や本質を持っていながら時々刻々と変化していく。この二重性こそが、仏教の「法」を理解するカギである。アビダルマ仏教では、生成変化の底流にあって変化しない本質的側面を強調して“法”を説いた。一方、『般若心経』をはじめ般若・中観系の仏教では、変化して実体がない側面を強調して“法”を説いた。
 
 両者とも存在の根底(せらに言えば全世界の根底)を明らかにする試みではあったが、方向性に違いがあった。アビダルマ仏教では、諸々の事物は合成され解体されていくものであり、その構成要素となるものを明らかにしようとして五位七十五法などの“法”のカテゴリーを提示した。一方、般若・中観形の仏教では、そんな構成要素としての“法”にも実体はない(=空である)と論じていった。
 
 唯識仏教は、両者を統合するために識の側面から理論を展開した。つまり、色即是空よりは識即是空を基本において空の世界を説明しようとしたのである。アビダルマ仏教の提示する存在の構成要素としての“法”は、事物の特徴や本質や法則ではあるが、一方で唯識仏教の立場からすれば「そのように心によって捉えられたもの」でもある。そこで唯識仏教では、一切の存在論を“認識された事態”に還元してしまうのである。その言説が正しかろうが間違っていようが、仏道修行という観点からは、そのように心によって捉えられたあとに固定化されてしまった存在に関する観念・概念こそが克服されなければならないのだから。正しい言説は、“いつも当たっている言説”というだけであって、それが存在そのものというわけではない。
 
 
 さて、ここで一切法という場合には、有為法(=五蘊)も無為法(=涅槃など)も含まれる。「もの」も「理法」も含まれる。だから、「一切法は空性という特徴がある」とは、身心には実体がない、身心によって知覚される対象にも実体がない、その知覚内容にも実体がない、のみならず、十二縁起という存在生成の法則にも実体がないし、四諦(=苦集滅道)という仏教的真理にも実体がない、という意味である。
 
 十二縁起や四諦まで実体がないと宣言されると、それは仏教を逸脱した邪説のように思われるかもしれない。しかし、それらの理法もまた心によって捉えられたものであるならば、我々は心に映されたかぎりでの仏教的真理を見ているのである。こちら側で誤解しているかもしれないし、たとえこちら側で全く正しく理解していたとしても真如は常にその正しい認識の彼方からやって来る。すなわち、こちら側で「これが真理である」と打ち立てた観念ないし言説は、すべて真如の影像であることになる。影像自身は幻のごとく実体がないのである。
 
 真如はいつも彼方からやって来るのであって、我々の側からはいつも決して真如には到達しない。このような認識態度が、般若心経の空を理解するためには重要である。それは、心が打ち立てたものにこだわるな、ということである。こちら側では何も打ち立てないときに真如がやって来て、その影像が心の中に立ち現われる。心がからになったときにこそ、そこに菩提(=悟り)が立ち現われるのである。
 
 
 この経文は、心をからにする段階の教えである。存在するあらゆるもの(=一切法)が幻のごとく実体がないとなれば、対象への執着も、その対象についての観念へのこだわりも自然と無くなってくるだろう。つまり、その対象や観念に対する態度が無意味になってくるのである。すると、これまでその対象に付与していた実体性が薄らぎ、やがて消滅していくだろう。
 
 空性とは、「自性(=実体性)が空である」という意味だから、「一切法は空性という特徴がある」という経文の意味は、一切法が“それ自身まったく無い”という意味ではなく、一切法には“その実体性が全く無い”という意味である。我々が世界像を打ち立てるための固定的な存在が全くないとしたら、我々の世界像は流動化して、やがては幻のごとく消滅していく。その究極の状態が「空」の境地である。
 
 



 
 
 
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2009年12月 6日

般若心経解説(12)受想行識亦復如是

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(漢文読み下し)  
 受想行識もまたかくの如し
 
(梵文和訳)
 
 まさしくこのように、受想行識は(空性であり、空性こそが受想行識なのである。受想行識は空性とは異ならず、空性は受想行識とは異ならない。受想行識であるところのものが空性であり、空性であるところのものが受想行識なのである)。
 
 この一節は、色不異空などの縁起的存在のあり方を色のみならず受想行識にも適用できるという意味である。だから、繰り返しを厭わずに述べると、以下のようになる。(括弧内はサンスクリットの般若心経にのみ存在する意味。)
 (受は空性であり、空性がまさしく受なのである。)受は空性とは異ならず、空性は受とは異ならない。受であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが受なのである。
 (想は空性であり、空性がまさしく想なのである。)想は空性とは異ならず、空性は想とは異ならない。想であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが想なのである。
 (行は空性であり、空性がまさしく行なのである。)行は空性とは異ならず、空性は行とは異ならない。行であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが行なのである。
 (識は空性であり、空性がまさしく識なのである。)識は空性とは異ならず、空性は識とは異ならない。識であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが識なのである。
 
 受は苦楽の感受作用、想は対象の形相を捉える構想作用、行は意志や動機などの力動的な心理作用、識は認識作用である。これらには、定まった性質(すなわち自性)がない。
 
 たとえば、同じ水を感受するにしても、渇いているときは快楽を感じるが、溺れているときは苦痛以外の何ものでもない。あるいは、薄暗い道で長いものをみつけて蛇だと思って恐れる場合もあれば縄だと分かって安堵する場合もあるように、同じ対象が必ずしも同じ形相に捉えられることはない。また、人間の意志(たとえば特定の人への愛情)は永遠ではなく、ころころと変わってしまう。さらに、さまざまな経験によって対象に対する認識はどんどん変化していく。むしろ、状況によってどんどん心が変化しうるからこそ人間は外界に適応できるのだとさえ言える。
 
 
 ところで、色は広義には目に見えている形あるもの、すなわち事物一般である。事物一般は永遠不滅ではなく時間とともにいずれ形が崩れていくものであり、それゆえ実体性がない。だが、この場合の色は、狭義に肉体と考えても差し支えない。そして、人間の心に相当する受想行識もまた色と同じ法則のもとにあるということは、人間は身心ともに空性であるという意味でもある。
 
 一般に、初期仏教(原始仏教から説一切有部などの部派仏教まで)では我が空であることまでしか明らかにされず、大乗仏教において初めてあらゆる要素的存在(すなわち諸法)もまた空であることが明らかにされたと考えられている。そして、般若心経のこの一節までが初期仏教の我空を意味し、この後の「舎利子是諸法空相」以下の部分で法空が明らかにされる、と解釈されることもある。
 
 たしかに個人が死んで無になっても外界はそのまま存続しているのだが、もしこれを、初期仏教は“皮膚の内側”のみを空として“皮膚の外側”を有と考えたと見なしたならば、それには少々問題がある。なぜなら、皮膚の外側にある形あるもの(色)もまた生滅することは、諸行無常・諸法無我によって原始仏教の頃からすでに教えているからである。この教えをうけて部派仏教では、形あるあらゆる事物がそれ自身としては実体性がなく諸法(すなわち要素的存在)に還元される(分解される)故に空である、と見なした。ところがそこまでで認識が止まってしまった。一方、大乗仏教徒はその諸法までもが空であるとの認識に達した。皮膚の内外(または自他)が問題なのではなく、むしろ存在の根底が空であるかどうかが問題だったのである。
 
 
 《以前》、色即是空の解説のために以下の図を使用した。
 
 
色と空(2)
 
 
 これを拡張して、これまでの経文の意味を一括して図示すると以下のような図になるだろう。
      
 
五蘊と空
 
 
 
 中央の大きな円が空性を表わす。そして、それ以外の(円の外側)部分は、仏教的には存在しないものの領域を意味する。空性の円と色受想行識の円とが重なったアーモンド型の五つの領域は、おのおの色即是空、受即是空、想即是空、行即是空、識即是空を意味する。これらが世の中に実際に存在する五蘊であり、これらをまとめて有為法という。また、これらの外側に割り当てられる色受想行識は、存在していると観念的に思われているだけで実際には存在していない。一方、中央の☆の水色領域は無為法を意味する。有為法と無為法を合わせて一切法という。それは中央の大きな円に相当するから、一切法は空性であることになる。
 
 原始仏教では五蘊が一切法だったが、部派仏教になるとそれらは有為法と呼ばれ、その他に無為法が加えられた。説一切有部は虚空、択滅、非択滅の三つを無為とし、唯識法相宗はさらに不動滅、想受滅、真如を加えて六無為とした。
 
 虚空は五蘊を容れる空間である。択滅は涅槃と同義とみていいだろう。非択滅は縁が欠けているために何も生じない状態である。『大乘百法明門論解』(大蔵経テキストデータベースを参照)によると、不動滅は色界の第四禅で顕われる真理、想受滅は無色界の無所有処で想受が働かないときに顕われる真理だから、深い禅定で体得される空の理を意味していると考えて差し支えあるまい。真如は第一義諦としての空性そのものと考えていいのではないかと思う。無為法は、色の否定としての空、ないし受想行識の否定としての空とほとんど同じものを指していると言ってもよかろう。いわば無になった状態を意味する概念である。
 
 色でない空性の領域には、空である受想行識(四つのアーモンド型の領域)も含まれてはいるが、これは色ではない別の存在状態を意味している。しかしながら、「色即是空」で言いたいのは“色であると同時に空である状態”だから、この四つのアーモンド型の領域はあまり議論すべき問題ではなかったのだろう。「色即是空 空即是色」で警戒すべき重要な点は、色を否定するあまり空無の観念に陥ってしまって色がそのまま空であることを見落としてしまうことである。
 
 原始仏教では、涅槃が無為とされる。それは、あえて何かを打ち立てたのではない状態を意味する。有るがままに(現象が)有り無いがままに(自性が)無い状態の認識(般若の智慧)にとどまっているのが涅槃だが、原始仏教では完全な涅槃(般涅槃)は肉体を滅した涅槃(無余依涅槃)だから、彼岸という虚無の世界がそれ自体として存在するような気がする。だが、もしもここで無為“法”として何らかの観念を打ち立てたなら、それはもはや法であって無為そのものではないだろう。涅槃はあらゆる観念を離れて寂静としている。それと同様、六無為もまた本来は“法”ではない。
 
 しかし、概念的に整理するために説一切有部はそれらを法として扱っている。私がここで提示した図もまた概念的な整理のためである。私が真如を意味するときに「この図の向こう側」などと表現するのは、そのためである。真如もまた概念的に把握するならばこの無為法の領域に入る。そして無為“法”の向こう側には、無為法の実相としての無為がある。
 
 般若心経の経文自体は、無為法もまた空性であるとは明言していない。しかし、のちほど経文に出て来る「無苦集滅道」の滅は択滅を意味しているから、無為法もまた五蘊等の有為法と同列に空性であると見なしていると考えて差し支えなかろう。
 
 
 ところで、この図では我ないし人間はどこにいるのか。
 
 インド哲学でいう我(アートマン)は、実体であって空ではないとされるのだから、中央の大きな円の外側、すなわち存在しない領域に割り当てられる。一方、縁起的な現象としての人間は、これらの五蘊(五つのアーモンド型の領域)から構成されたものである。だから、存在の要素(すなわち法)のどれかとしては出て来ない。
 
 あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。現象としての人間はどの部分をとっても空性だが、自らの五蘊の全体またはその一部でもある。たとえば、肉体の一部が欠けていても人間だし、感覚が麻痺している場合には受がないし、深く眠っている場合には識がない。また、感情などを抑圧している場合には、私の心の一部を恣意的に否定していることになろう。誰でも「人間」と言ったり「私」と言ったりする場合には、このようにその状況で生理的・恣意的に変化する伸縮自在な一定範囲を指してそう宣言しているのである。
 
 結局は、「これが私だ」と恣意的に定義され、執着され、永遠だと誤認されたものが「我」なのであって、それは実体として客観的に存在するものではない。ところが、実体としては存在しないけれども、「私」という言葉のもとにかき集められた身心が、現象としては存在しているのである。
 
 
 
 
 
 
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2009年1月17日

般若心経解説(11)空即是色は間違い?

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 『般若心経は間違い?』でアルボムッレ・スマナサーラ氏は、色即是空ではあっても空即是色は間違いだという。論旨は以下の通り。
 
 「1+1=2」なら「2=1+1」と言えるし、「A=B」なら「B=A」とは言える。しかし、「リンゴは果物である」が、「したがって、果物はリンゴである」とは言えない。「人は死ぬべきものである」とは言えるが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」とは言えない。これと同様に、「肉体は空である、実体がない」とは言えるが、「したがって、空は肉体である」とは言えない。
 
 ちょっと考えただけでも、空であるものは色だけではなく、たとえば空即是受などもありうるのだから、西洋論理的に正しくないとも言える。
 
 だがこの場合、般若心経はそこまで形式論理を厳密に使っていないのかもしれない。色即是空では「色(a)であるならば、必ず空性(b)である」(論理的にはa⊆b)を意味し、空即是色では「空性(b)であるときに(のみ)色(a)がある」(論理的にはb⊇a)を意味しているのかもしれない。スマナサーラ氏は前者の論理形式だけで押し通して矛盾を指摘している。
 
 
 しかし、別の本文解釈も可能だろう。
 
 サンスクリットの般若経の“rUpaM zUnyatA zUnyataiva rUpam”(サンスクリット表記法は こちら を参照)は、「色は空性であり、まさに(この)空性(であるもの)が色である。」とも読めそうである。(-ivaは、「まさにこれであって、他のものではない」を意味する eva が直前の単語と結合して変化した形) すなわち「色は空性である」と「空性は色である」とは対等な関係の主張命題ではなく、後半の空性は、前半の内容を含んでそれに限定された空性であると解釈することも可能である。
 
 また、“yad rUpaM sA zUnyatA yA zUnyatA tad rUpam”すなわち「色であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが色である。」という一節は、さらに別の解釈が出来る。すなわち、「Ⅹ=aの時そのX=bであり、X=bの時そのⅩ=aである。」という論理を展開していると言える。つまり、aとbの包含関係を論じているのではなくて、指定されたXがaならばbでもあり、指定されたXがbならばaでもあるということを提示したと言える。
 
 この一節の前半は、「Xが色である時そのXは空性である」だから理解しやすい。一方、後半は「Xが空性である時そのXは色である」となるので分かりにくいだろう。だが、ここでは何らかの対象Xを第一に指定して話を始めている。そのXは、種明かしをすれば概念的には色に相当するものなのだから、必然的に成立しなければならない。私の想像では、「Xが空性でない時そのXは色でない(そんなものは存在しない)」という含意があったのではないかと思う。(以下、ちょっと話がややこしくなる。)
 
 ここで、「Xが色である時そのXは空性である」という論理命題は、「Xが色でない時」に関しては何も言っていない。その場合、Xは空性でも空性でなくてもいい。(これは、空性か否かはこの命題のみからは未確定という意味である。) つまり、「まずは話を色に限定しよう。そして、その場合は空性である。」ということである。
 
 次に、「Xが空性である時そのXは色である」という論理命題もまた、論理形式上では「Xが空性でない時」に関しては何も言っていないので、空性でない場合はXは色であるのかもしれないし、Xは色でない(Xに色は存在しない)のかもしれない。しかし、この場合は既に「Xが色である時そのXは空性である」とされているのだから、「Xが空性でない時そのXは色である」は成立しない。そして、「Xが空性でない時そのXは色でない(Xに色は存在しない)」だけが残るだろう。
 
 ちなみに、「もしXが空性でない(縁起的存在ではない)ならば、Xは成立しえない。」という命題を多方面から主張しようとしたのが『中論』の龍樹(ナーガールジュナ)であった。
 
 
 空性(シューニャター,zUnyatA)は、「般若心経解説(8)空性の意味とその深浅」で指摘したように自性空(スヴァバーヴァ・シューニャ,svabhAva zUnya)の意味である。もう少し詳しくいうと、「そこに自性が無いこと」を意味する。
 
 すると、「色であるとは、《そこ》に自性が無いことであり、まさに《そこ》に自性が無いことが色であるということである。」となって、《そこ》が色を指しているのは文脈上まったく明らかである。この場合は、「色という概念には、《そこ》(=色)には恒常不変の実体が無いということが含まれている。まさに《そこ》(=色)には恒常不変の実体が無いということが含まれているのが、色という概念である。」という意味になろう。
 
 「色即是空」の“色”は、自性がある(と構想された)色である。すなわち、世俗の分別にまみれた色(という概念)である。しかし、「空即是色」の“色”は自性のない(真実の)色である。すなわち、色は色や形として意識に現われてきたものであり、概念的に把握された物質ではない。両者で“色”の意味が微妙に違っているという点を見逃してはならない。
 
 
 一方、「色であるところのもの、“それ”は、《そこ》には自性がないのであり、《そこ》に自性がないところのもの、“それ”は、色である。」の場合は、《そこ》は色ではなく「~ところのもの」という未知の対象“それ”である。種を明かせば“それ”と指し示された真如(の一部)がそもそも色であり空性だったのだから、この一節に関して「空性は色でないこともある。」など批判するのは、経文の文意を見失っているとしか言いようがない。
 
 空性というのは、それ自身としての具体的な意味内容をもっていない。常に何かの存在をって「《そこ》に自性が無い」と言ったときにのみ具体的な意味内容を獲得する。だが、それは何らかの対象の意味内容の一部――それが恒常不変の性質をもつという側面――を否定するのだから、空性は常に何らかの対象に寄生して具体的に存在すると言えよう。「空性は……」と単に言っただけでは全く空虚であり、「色の空性」とか「受の空性」などのような意味が言外に含まれてはじめて文意をなすのである。したがって、「空即是~」という場合には、必ず前に何か言及があって空(性)の意味が限定されていると考えてもよいのではなかろうか。
 
 
 
 以上のように、後半の句は前半の句とリンクさせて意味を理解するのが正しい。色即是空を体得しているほとんどの人はこれを無意識的に知っているはずだが、論理的に間違いだと言われると反論できなくなってしまう。大乗仏教徒はもっと論理的に経文を分析・解釈し、もっと意識的に理解する努力をすべきではないかと思う。
 
 
 
 
 

 
 
 
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2008年12月19日

般若心経解説(10)色即是空 空即是色

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(漢文読み下し)
 
 色は即ち空なり、空は即ち色なり。
 
(梵文和訳) 
 
 色であるところのもの、それは空性であり、空性であるところのもの、それは色である。
   サンスクリットの般若心経では、ここには関係代名詞が使われている。したがってこの和訳でも、「~ところのもの」というお決まりの翻訳的言い回しを使っておいた。原文は以下のとおり。(サンスクリット表記法は こちら を参照)
yad rUpaM sA zUnyatA  yA zUnyatA tad rUpam
 ちなみに、このサンスクリット語を英訳すると、たとえば“What is form (that) is emptiness; what is emptiness (that) is form.”となる。昔は指示代名詞のthatを使ったが、現在の英語では間違いとされる。サンスクリットの般若心経では、昔の英語と同じく指示代名詞(sA,tad)の入った構文になっている。

 この“what”は一般に“the thing which”に置き換えると分かりやすいが、ここでは“the X which”に置き換えて訳し直してみる。すると、

the X which is form (that) is emptiness; the X which is emptiness (that) is form.
となる。この一節では“the X”という未知のものが重要なポイントとなる。

 「色であるところの未知のものX、“それ”が空性であり、空性であるところの未知のものX、“それ”が色である。・・・・・さあ、“それ”とは何か、参究せよ!」といったところだろう。

 色であるとか空性であるというのは、じつは分別の結果の概念的な認識である。しかし、ここで提起された“それ”とは、そこから概念的な認識が生じてくる当体である。あえて言葉にするならば、対象の実相とか真如とかいうことになる。それを概念的なレベルに落としてしまえば、「色は空性であり、空性がまさしく色である。色と異なることはない、空性は。空性と異なることはない、色は。」という経文が指し示すものと同じになってしまうが、概念に基づいた分別世界を超越した“それ”を発見したとき、そこには分析的な理解を超えた実相が浮かび上がってくるだろう。色即是空がわかるということは、そういう実相と出会うことを意味する。
 
 私が使っているベン図では、いずれも分別レベルでは3の領域を示そうとしているのだが、この「色即是空 空即是色」の場合は、いわば3の領域を通した向こう側(PCモニターの裏側の空間?)を“それ”として指し示しているのである。 

色と空(2)

 ここに示されている二つの円は、いずれも概念としての色であり空性である。二つの円の重なった部分もまた、「形をもちつつ変化するもの」とか「存在しつつ実体をもたないもの」などのように、概念としての存在である。ところが真実の対象Xは、そんな概念的な分析を突き破った彼方にある。私が以前に使った言い回しで言うと、領域3は“有るがままに有る”ことを意味し、彼方の“それ”は“無いがままに無い”ことを意味する。

 「概念を超えた対象がどこか彼方に“有る”」と考えてはならない。“有る”と考えたらすでに概念的思考に陥ってしまって真実の対象を捉え損なっているからである。だから、これも方便としての解説である。「分別する凡夫においては、認識主体と真実の対象Xとの間に概念が挟まってしまっている」という事態を説明するために“概念の彼方”と表現しているだけである。そして、“無い”といっても有無の判断で無と判断をしているのではなく、判断活動の停止や、その停止によって現われてくるものを意味している。
 
 
 サンスクリットの般若心経では、

(1)「色は空性であり、空性がまさしく色である。」
(2)「色と異なることはない、空性は。空性と異なることはない、色は。」
(3)「色であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが色である。」
の三段階で説かれている。その指し示す対象領域は、ベン図ではいずれも領域3に相当するが、それを捉える側の認識論的な視野が微妙に違う。三段階の説明は、色であれ空性であれ、それらの概念からそれらの真如へと導こうとした軌跡なのである。正確さには欠けるが、これを生死の喩えで説明していこう。
 
 (1)の場合、たとえば生死で考えると、「人間は生きるものであり、死ぬものである。」となろうが、そのとき多くの人々は生きている相と死んでいる相とを別々の時間に想定し、両者が別々であるかのように考えがちである。今生きている人間はずっと生きていて、今死んでいる人間はずっと死んでいる、と思ってしまう。同じ人間であるにもかかわらず、「生きている」という相を恒常普遍化し、「死んでいる」という相を恒常普遍化したいがために、生滅する人間という捉え方がなかなかできない。二つの円が重なった部分といっても、それはちょうど円形をした二枚の紙が重ねられているようなものであり、生の円と死の円は相互に独立な存在として自らの円を頑固に主張しているようなものである。「誰かが無理やり重ねているからいけないんだ!」と言っているかのようである。そんな中で、一生懸命ふたつの概念を重ね合わせようとしている段階である。
 
 (2)の場合、両者が互いに浸食されているという意味になろう。永遠の生はありえない。一方、仏教では前世のカルマによって転生(再生)があるから、永遠の死もありえない。必ず生は死によって浸食され、死は生によって浸食されている。ここでは、「生きている」という相の恒常普遍化も、「死んでいる」という相の恒常普遍化も、崩されてきている段階だろう。いわば、生の円と死の円は一部分がぴったり貼り合わされてしまい、相互に独立な存在として自らの円を頑固に主張することができなくなってきている段階である。しかも両方の円が互いに他方の円の独立性を否定しつづけるのだから、重ならない部分がどんどん崩されていく。
 
 (3)の場合、両者はぴったり一致している。二つに分けることができない。もはや生の円と死の円というものが最初にあるのではなく、真実には生死という領域3のアーモンド型部分のみがあり、一方で生の相という観点から仮に生の円(左側の円)を幻のごとく現出させ、他方で死の相という観点から仮に死の円(右側の円)を幻のごとく現出させている。二つの円(すなわち恒常普遍化された生の概念と死の概念)ははじめから存在しない。それは我々(というか無明)が作り出した幻である。しかしまた、我々が今現在、生死の中に存在しているということも事実なのである。
 
 以上は「色と空性」の説明ではなく「生と死」の喩えによる説明である。より正確に言えば、生死(している実相)が空性であって、死が空性なのではない。しかしながら、色への執着が強い場合には、色には確固たるものが何もないという空性が無のように思えてしまう。そこで今度は、「空性は、かならずしも存在の単なる否定・虚無ではない」ということがあらためて教えられなければならない。本来は「有・無」(または「生・死」)の議論と「色・空性」の議論とはきちんと区別しなければならないのだが、実践的には両者が重ねられて教えられる傾向にある。空性の概念をどのように整理すべきかは、次回にまた論じてみたい。
 
 
 色と空性を本源的に一つのものとするあり方は、両方の概念を混同することではない。それは、認識のあり方を根本的に転換することである。喩えとして円柱(または円筒)を認識する場合を考えてみよう。円柱(または円筒)は、真横から見ると□であり、真上から見ると○である。(長方形の場合が多いが。) 各相にこだわる段階は、いわば一方向から平面的にしか対象を見ないような認識態度であり、“それ”を見る段階は、各相を超えて円柱(または円筒)を全体として立体的に認識しているあり方である。そして、上記の三段階は、正面図(または側面図)と平面図でしか認識しない状態から、それらが一つのものを表わしていることを発見し、ついにはその全体のイメージを認識する状態へと進んでいく過程を暗示しているとも言えよう。円柱(または円筒)そのものは、自らの全ての相を内包していつつ、そのどれでもないのである。
 
 
 
 結果的に語られた内容は他の『般若心経』解説本と大差はないと思うが、このような説明のしかたは、おそらくこのブログでしか見かけないものだろう。ほとんどの『般若心経』解説本は漢訳をもとにして古人の注釈をなぞっているからである。サンスクリット原典をもとに解釈しようとした試みもあるにはあるが、私としてはしっくりこなかった。今回の私の解説においては、“the X”がどれだけ理解できるかが最も重要で、「色即是空 空即是色」を体得している人ならば、それをもとにして私の言わんとするポイントを容易に理解するはずである。そうでない人は、“the X”をどこかに探そうとせずに、分別を超える境地を探してみるべきである。そうすれば向こうから“the X”はやって来るだろう。
 
 おそらく私の解説は、ほとんどの人が注目しない“それ”の意義を強調した特異なものだろうが、この“それ”に参入していくことによって、数回後に解説する「諸法空相」が理解しやすくなってくる。今回はいわばその前ふりでもある。
 
 
 
 

 
 
 
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2008年2月 2日

般若心経解説(9)色不異空 空不異色

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(漢文読み下し)

 色は空と異ならず、空は色と異ならず

(梵文和訳)

 色と異なることはない、空性は。空性と異なることはない、色は。

 サンスクリット語では、pRthak(~とは異なる;サンスクリット表記法はこちらを参照)という前置詞につながる名詞の格はablative(従格)なので、漢文でふつうに「色は空と異ならず、空は色と異ならず」と読むとサンスクリット語を正しく訳していないことになる。しかし、サンスクリット原文とは二句の順番が入れ代わっていると考えれば、漢訳でも実質的に意味はほぼ同じになろう。

 「異なる」の意味は、“別々のもの”という意味と解釈するとよかろう。実際この合成語には、pRthak-kArya(〔中〕別々の仕事、私事)、pRthak-kRti(〔女〕個人)、pRthak-zabda(〔男〕個々のまたは独立した語)、pRthak-pada(〔形〕単独の(合成しない)語からなる)というものがあり、引き離された別個の存在というニュアンスが強い。

 したがって、この経文は、色は色、空性は空性として別々に存在しているというわけではない、すなわち、色と空性は別々のものではないんだという認識に導こうとしているのである。

 一般人は、「色と空」を「有と無」と考えてしまいがちだが、空性というのは無ではなくて、「自性を欠いている」という意味である。何かがあろうとなかろうと、そこに自性はない。それが仏教の基本認識である。漢訳ではサンスクリット語の zUnyatA(空性)を単に「空」と訳してしまっているので、少々問題がある。単に空と訳すと、「有と無」の対立を考えてしまいがちだからである。


 ここで、以前に提示した徳利の喩えを使おう。それは徳利を色に、酒を自性(という観念)に喩えたのだから、真実には、徳利が有ろうと無かろうとそこに酒はないのである。ところが凡夫は、徳利があるとそこに酒があるように思えるのと同じく、色がそこにあるとそこに自性もまたあるような気がしている。そして、色が無くなったときに初めてそこに自性がなかったことが認識される。しかしながら、色はあってもなくてもそこに自性は存在しない。色は空性なのである。

 色は個物としての現象ある。他方、空性は“ものには実体がない”という存在のありようである。両者は把握の仕方が根本的に異なる。だから、まずは存在するもののこの二側面を全体として認識の中に取り入れなければならないだろう。「色不異空 空不異色」は、そのような認識の再編を求めているとも言える。

 色は、目で見て「これ」として捉えられる。そして、そのあとに「これ」のさまざまな性質が認識される。そのうちの一つが、“実体がない”という性質である。しかしながら大抵は、「これ」が“有る”というところから始まるために色の“実体がない”という性質は認識の中から弾き出されてしまう。そこで「空性は色とは異なる(別々である)」と考えられてしまいがちになる。それに対して般若心経は「色と異なることはない、空性は。」と教える。色のなかに空性という性質を入れ込もうというわけである。

 逆に、空性から認識を始める場合には、全てを否定的に捉える傾向がある。「あれもない、これもない……」というように、虚無の世界に入り込んでいく傾向がある。だが、それは色という個物としての現象を完全排除してしまい、これもまた真実を見ているとは言い難い態度である。無心の境地というのは確かに気持ちがよいだろうし、そこを安住の地とし、それを実体視したくもなるだろう。しかし、人間は生きているかぎりずっと無心の世界に安住するわけにもいかない。生きるためには存在の世界に関わる必要がある。したがって、虚無のごとき空性の世界にも色が入って来なければならない。

 また、空の観念に浸って色を拒絶していると、排除された色は、空性の意識世界の外で無意識的に実体として存在し続けるだろう。かくして色もまた空性の世界に引き入れられなければならない。

 空性は有の否定としての無ではない。空性を無と同一視していると、「色は空性とは異なる」ということになり、有が適切な形で空性のなかに入ってこられないのである。空性とは、有に浸透する無(=実体の無さ)である。あるいは、有を包摂する無である。だが、有といってもそれは実体ではない。縁起として仮に生じているからこそ、無が浸透し、無に包摂されるのである。そのようなものを色として空の観念世界に引き入れることができるとき、「空性と異なることはない、色は。」という教えが理解される。

 「色と空が別々のものではない」という状態を集合論的に考えてみると、それは、円で表わされる二つの集合の重なり具合によって容易に理解できるだろう。色と空が別々のものである場合、二つの円はまったく重ならない。しかし、経文はその状態を否定しているのだから、二つの円は少なくとも一部は重なっていることになろう。そうすると、これは三つの領域に区分される。「色であり、かつ空でない」領域1(黄色部分)、「空であり、かつ色ではない」領域2(空色部分)、「色であり、かつ空である」領域3(黄緑部分)の三者である。この段階でさらに色と空は異ならないという規定を適用すると、前二者が否定されてしまい、「色であり、かつ空である」だけが残る。ここまでくると「色即是空 空即是色」と実質的に同じ意味になるだろう。したがって、「色不異空 空不異色」は、ここまで両者を一体化させるために両者の観念を重ね合わせようとする働きをしていたのである。


色と空(1)             色と空(2)

 この経文では、最終的には後二者の両極端が否定されている。すなわちこの経文は、完全に実体化された色を否定することと、完全な虚無としての空を否定することとが含意されているである。空性を完全に排除する色も、色を完全に排除する空性も存在しないというのである。有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。

 徳利の喩えを使うと、こうなる。色に自性があるというのが否定されているのだから、徳利に酒がある状態が否定されている。同時に、何も無い状態も否定されているのだから、徳利がないので当然酒もないという状態が否定されている。肯定されているのは、「酒が入っていない徳利がある」という状態である。この認識に至る過程では、酒(自性)がないという状態を自覚しなければならないのだから、そもそも徳利(色)自体がない虚無の状態を経験しなければならない。しかし、それは自性の無を自覚するための方便である。はじめっから徳利がなければ酒を呑みたい気分も起こらずに安楽に暮らせるだろうものを、虚無の安楽まで否定して、酒の入ってない徳利を目の前に置いてじっとガマンしろ、というのが仏教の教えだとも言える。(苦笑)

 自性空を真理として認識し、それをしっかり腹に据えるまでは、「諸行無常 諸法無我」(すなわちあらゆる事柄に恒常不変の実体が存在しないこと)という現実に耐えるのは大変な苦行なのである。


 


 
 
 
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2008年1月17日

空性の喩え(4)三性・三無性

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 今回は、唯識仏教の三性・三無性論の見地から空の構造を三段階で考えていきたい。

 三性とは、遍計所執性(または分別性)、依他起性(または依他性)、円成実性(または真実性)である。遍計所執性とは、凡夫が分別(概念的思考)によってあれこれと判断して何かに執着している心の状態をいう。依他起性とは、存在するものが他のものとの依存関係によって、つまり諸条件が組み合わさることで生起していると認識している心の状態を意味する。円成実性とは、空が完全に顕現している心の状態を意味する。

 一方、三無性とは、上記それぞれの心の状態を無の側面から形容した、相無性、生無性、勝義無性である。相無性とは、分別によって執着されている対象の形相は空華のごとく存在しないという性質を意味する。生無性とは、諸条件によって生起しているものは、幻のごとくそれ自体としては存在しないことを意味する。勝義無性とは、分別によって執着されている対象の形相が完全に無くなっていることを意味し、それはものが完全に退けられた虚空に喩えられている。

 私は三性を“心の状態”と説明したが、それは認識態度と認識対象の両方(すなわちその全体のありよう)を意味している。たとえば、「あばたもえくぼ」という言葉があるが、恋をして「えくぼ」だと見てしまう人にはその対象は「えくぼ」として現われている。しかし、冷静な別の人は同じ対象を見て、「あばた」がそこに現われているのを知る。この場合は、真実には「あばた」が客観的な対象になるのだろうが、逆に、大嫌いな人間の「えくぼ」は「あばた」に見える場合もあろう。同じ対象が見る人の心の状態によって違って現われて来ることは間違いあるまい。現われてくる対象は認識態度の影なのである。

 遍計所執性と相無性は、幻想と幻滅に置き換えるとわかりやすい。以前の喩えで言えば、「財布にカネがない」という場合のカネのありように相当する。財布の中身を覗かないかぎり、なんとなくカネがあるような気がしているが、そんなカネは財布を覗くとたちまちに跡形もなく消え去ってしまう。しかしながら、その存在しないカネになお執着する場合もある。「あそこであれを買わなければ・・・」などと後悔している場合がその典型だろう。頭の中は粉飾決算で満ちあふれているわけである。(笑) そして凡夫は、真実が露顕するまで粉飾決算の世界を現実だと思いなしているのである。

 かように我々は幻想のなかを生きている。しかし、そんなものは現実には存在しない。現実を直視して幻想を捨て去るのも空の修行の一側面であろう。はからいを捨てて、あるがままを見る。そんな教えは禅坊主からイヤというほど聞かされているのではないかと思う。そのレベルだけで般若心経を理解したり解説したりする人が非常に多いのではないかと思われるが、もっと深くまで見ないと般若心経は完全には理解できない。


 さて、その“あるがまま”の姿とは何であろうか。それは、あらゆるものが諸条件によって生起している縁起の姿である。それ自体として存立しているものは何一つない。あらゆるものは相互関係・相互依存のなかで存在しているのである。だが、このようなダイナミックな存在物の世界は、そのように構成されて存在していると便宜的に捉えられているだけてあって、諸条件としての確固たる構成要素が存在するわけではない。

 依他起性と生無性は、以前の喩えでいうならば、「私には財産がある」という場合の財産のあり方がそれに相当するだろう。さまざまな関係の網に支えられて財産が成立しているのであって、その関係の網が破れたら、一瞬にして財産が無に帰することもある。

 この地球環境も同様である。一カ所でも不具合が出て来ると様相ががらりと変わってしまう。日本人は山川草木がずっと変わらずにあると思ってしまいがちだが、人間の活動量が一定の限界を越えて自然条件が変化してしまうと、我々が何もせず直接それらに働きかけなくても、あるがままの山川草木など幻のように消えてしまうのである。生まれてからこれまでずっと変わらずにあった山川草木、いや何百年もつづいてきたらしい山川草木、あれは一体なんだったのだ。機械のような人工物であるならば構成要素の組み合わせという発想で知的に処理もできようが、自然に生まれて個物として存在しているように見えるものは、縁が欠けると風のようにその存在そのものが消えていくのである。


 一切の存在は縁起であるという場合、さまざまな縁が集まってそこに“何かが有る”のだという文脈が形成されうる。だが、「空性とは縁起である」という場合には、「諸条件によって構成されたものは、恒常的なそれ自体としては“無い”」という否定的側面に力点が置かれる。縁起には、構成されて何かが“有る”という肯定的側面と、実体としては何も“無い”という否定的側面とがある。空性という場合には、この否定的側面が前面に押し出される。般若心経の場合には、この否定的な方向へのベクトルが基本になっている。

 分別の世界を越えて「あるがままに見ている」ありようが依他起性であるならば、その依他起性の認識を徹底すると、いかなるものにもその存在の基盤がないことを悟ることになる。だから、「ないがままに見ている」ありようのが円成実性である。暫定的に存在物を仮設して見るならば、それは確かに存在するのだが、円成実性を悟っている者は、存在物へのこだわりが全く無いので、その存在物があるかのように心が強制されることはない。つまり、「あれがある」とか「これがある」という思いに引っかからないのである。

 幻想の対象は空華のごとくはなから無く、現実の対象もそれ自体としては無い。そのようにして「あれ」も「これ」もそれ自体としては無いということが明らかに悟られるとき、初めて空が完全に成就し、涅槃が達成される。

 以前に徳利の喩えで、「色に自性が無い」という真実を「徳利に酒が無い」という事態に喩えたが、これは「あらゆる存在物に自性が無い」という円成実性を暗示していた。酒が入っていなくてもからの徳利があるように、自性がなくても何かからの存在物がある。だが、永遠に酒が入らない徳利が限りなく徳利の意味をなさないように、永遠に自性がない存在物もまた限りなく存在物の意味をなさないのである。

 逆に、その無意味な徳利に酒を入れればたちまちにして徳利がその存在感を増すように、存在物が“仮に有る”と見なすことで、その存在物が意味を持ってくる。仏陀の言葉は、そのようにさまざまなものが本来は無であると認識しているにもかかわらず“仮に有る”として説かれた教えである。ただし、仏陀は巧みな手だてによって徳利に酒ではなくて水を入れる。酔える者にとってそれは清涼であり、それを飲んでいるうちに顛倒の酔いが醒めていく。それこそが、それ自体として有るのでもなく、まったく何も無いのでもない、という中道の教えだろう。

 般若心経を理解する場合には、その経文がこの三性のどのレベルについて述べられたものなのかをよくよく吟味して読まなければならない。だいぶ寄り道をしてしまったが、次回からまた経文の解説に戻ろう。


 
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2007年12月31日

空性の喩え(3)縁起の側面から

~ シリーズ最初からよむ人はこちら ~ 


 前回は「財布にカネがない」という喩えを使って空性のイメージを広げたが、今回はその喩えをもう少し抽象的・一般的レベルにもっていこう。すなわち、

私には財産がある

という事態を考えてみたい。

 このとき我々は、「私は確固たるものを所有している」と思いがちである。ところが、いずれの財産をとってみても、そこに完全性を求めるならばだいぶ怪しくなってくる。


 いちばん怪しいのは株という財産である。たとえば、「私は○○株式会社の株を××株持っている」といって金庫に大切にしまっている人がいる。だが、株券そのものが財産的価値を持っているのではない。株券は、その財産的価値が特定の人に帰属していることの証明書みたいなものである。財産的価値を所有しているか否かは、紙よりもむしろ公式の手続きに依っているのである。公式の手続きが無効になれば、株券もただの紙切れになる。タンスの奥に大切に株券をしまっている人は、自分の財産が空になったと悟る前に、この機会によく調べてみるべきである。Yahoo辞書の新語探検に、こんな項目があった。


   タンス株

2007年11月16日
 個人株主が自宅などで保管している上場企業の「紙の株券」をさす。株の取引は、個人客が株価および株数に応じた現金を払い込むことによって「株券」が引き渡され、それを個人の家庭あるいは銀行などの貸し金庫で保管するというのが一般的だった。つまり、個人株主がその株券をタンスの引き出しなどに入れて保管しているところから、こうした個人の保有する株券を「タンス株」とよぶのである。ところが2009年1月からは上場企業の株券の発行を廃止し、売買や新株発行などについてはすべてコンピュータ上で処理されることになる。これを「株の電子化」といい、株主の権利は証券口座の記録によって確定し、その情報は証券保管振替機構(通称ほふり)を中心とするネットワークの中で管理されることになる。そのために紙に印刷された株券は09年1月以降は法律上無効となり、取引できないことになる。電子化の目的は、株券の印刷や運搬のコストの削減に加えて、偽造や盗難、財産隠しなどの防止にある。

 さあて、これで株という財産が自分の手元から離れてどこか遠いところで勝手に自らの姿を変えていきそうな気がして来ないだろうか。いや、すでにこれまでも株価の変動によって、株主は財産を自分の手元にしっかり捕らえているという感覚は持てていないはずである。いささか心許ない気分で、いつも株価チャートを眺めているに違いない。

 株価が少し下落するくらいはまだいいほうで、株式会社が倒産すれば株券は紙屑同然になる。・・・というのはこれまでの話で、これからは何と表現すればいいのだろう? いずれにせよ株という財産は一夜にして無に帰するのである。「財産がある」という状態が一夜にして「財産がない」に転化してしまうとは、そのような財産は本当に“有る”のだろうか。株という財産が誰かに奪われてしまうのではない、世界のどこにも、跡形もなく消えてしまうのである。株式というのはまさしく財産の“形式”であって、“実質”ではない。

 株式という一つの形式によって資金が集められ、会社が設立される。設立される前の会社はどこに“有る”のか、倒産したあとの会社はどこに“有る”のか。いずれも“無”である。そして、現在経営されている会社も、取引先との関係や資金繰りなどさまざまな条件によって存立している。会社の実体はそのいずれにもなく、せいぜいのところ会社を登記しているという法的手続きがその実体だと言えよう。これもまた紙切れのようなもの、さらに言えば法的手続きという観念的なものにすぎない。企業業績などを見れば会社の“実態”ははっきりしたものとして存在するが、会社の“実体”は存在しないと言ってもいいくらいである。株という財産は、そのような実態に依存して、配当金や売却益を受けとる権利として存在しているだけである。そこには確固たる固定的なものは何もない。

 それでも会社内の資金の流れとしては実体があるのだと考える人々に対しては、以下のような説明を付け加えておこう。たとえば、多くの商品を仕入れても、それだけでは商品は会社の所有する(正の)財産とは言い難い。それらが売れる見込みが全く無いのなら、それは屑同然だろう。倉庫に数千万円の(正の)財産があるのではなく、数千万円の負の財産すなわち借金を背負っているようなものである。物品は、それ自身で一定した固有の価値をもっているのではなく、さまざまな条件によっていかようにも変化してしまうような価値をもっている。我々は定価でその物品の財産価値を考えがちだが、実際はそんなものではない。

 ここで、物品の価値は変移しやすいとしても、紙幣や貨幣は一定の価値をもつと主張する人がいるかもしれない。だがそれは、1000円は昨日も今日も明日もその先もずっと1000円だという発想で見ているから、変わらないように見えているだけである。「それでどれだけのものが買えるか」という指標で見るならば、1000円に1000円の価値がなくなる場合もあり、また1000円以上の価値が出て来ることもある。インフレやデフレでそのことはほとんどの人が体験済みだろう。さらに身近な問題として、消費税率が上がれば、実質的にカネの価値は下がってしまうのである。

 もっと広い視野で見るならば、為替レートを見ればわかるように、日々刻々と円の価値は変わっている。隣の人が持っている円と同じく上下変動していて相対的な位置関係が一定だから、紙幣や貨幣の価値が一定していると思っているにすぎない。実際には、為替レートの変動によって金持ち国から貧乏国になることだってある。外国製品に多く依存している日本にとっては、円相場の変動がすぐに物品の価格として跳ね返って来るのである。素朴な人々は紙幣や貨幣を財産価値の基準にするだろうが、実際は物品との交換レートを財産価値の基準に置くべきなのだろう。仏教で縁起という場合には、こちらの方に基準がシフトしている。すなわち、貨幣は物品などと交換できるからこそ貨幣として存在しているのであって、そうでなければ貨幣とはいわない。

 さて、世界経済の変動に影響を与えるのが、投資マネーである。これがどのように動くかによって、バブルが起こったり不況や倒産が起こったりする。マネーが均等に分布しているか、どこかに集中しているか、どこかから欠如しているかで、そのマネーが額面以上の大きな力をもつことがある。それは、マネーそれ自体というよりもマネーの分布状況が作り出す力である。ちょっと儲かっている企業には銀行から融資話が持ち込まれ、どんどん株価が上がっていく。ところが何かの拍子で業績不振に陥ると、波が引くように資金が去っていき、倒産に追い込まれることもある。1+1が3にも4にもなる一方で、1-0.5が0になってしまう場合もあるというのが経済なのである。このような世界規模の投資マネーの大きなうねりの中に浮かんでいるのが、我々が手にしている1万円札や千円札だったりする。そこに恒常不変の実体を見るのは不可能である。


 このように、より広く経済活動の文脈で見ていくと、財産というのはさまざまな関係性のなかではじめて一定の形をもって存在できることがわかる。「私の財産」と言う場合には、そのような経済関係の網に支えられたほんの一部分を指しているにすぎない。網が破れれば転落するのである。

 このようなイメージを五蘊皆空に当てはめて理解すれば、たとえ五蘊への執着が皆無になって実相が見えてもやはりそこには実体が無いということがわかるだろう。

 
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