カテゴリー「仏教語」の4件の記事

2008年8月 2日

サンスクリット文字は口の形

 ここで扱うのはデーヴァナーガリー文字である。私にはこの文字が口の形を表わしているように思える。そこで、私が現時点でイメージしていることを不完全で暫定的ながらこの記事に書き留めておく。(学問的に信頼しうる内容ではないので、その点はご了解いただきたい。)

 古代インドのサンスクリットの発音を正確に知ることはできない。現代では地方により発音に違いが出てきている。私としては正確な発音を探りたいのでこんな試みをしているのだが、以下の解説は、サンスクリットを学習しようと思っている人には、簡便な記憶術のようなものとして役立つかもしれない。

 デーヴァナーガリー文字の活字は、たとえばこちらにあるので、それを参照しながら私の記事を読んでほしい。私の記事のフォントではちょっとイメージしにくいかもしれないから。ちなみに、私の記事に出て来ない文字のフォントはサンスクリット(Wikipedia)にある。

 なお、以下のローマ字表記はKH方式である。子音の下に点が付いている場合は大文字で表記している。また、発音特徴の類似したものをまとめて見ていきたいので順不同で解説しているし、私には分析不能なものもあるので、すべての文字を取り上げているわけでもない。



 全般的にいって、文字の上の横棒は口蓋を表わし、右側の縦棒は口を開ける(顎を下げる)動作を表わしていると思われる。したがって、縦棒がない文字は、あまり口を(下方に)大きく開けない。


 a〕 英語sumのuに当たる曖昧なア音である。左側の「3」は、上下の唇と舌を表わす。[a]の舌は、口の中でなんとなく中途半端な位置に浮いている。

 u〕 [a]音から、さらに下唇を突き出す感じになるなのだろう。


 U〕 長音「ウー」は、[u]音よりも舌を後方へ引っ張るような力をかけていると思われる。それが右側の弧で表わされている。

 e〕 顎を下手前にグーッと引いている。あるいは唇の両脇を斜め下に引いている。それが左棒の下部の斜め線で表わされている。

 i〕 [e]音ほどではないのだが、ちょっと唇を引いている。いちばん下のちょこっと出ている部分がそれを表わしているのではなかろうか?


 pa〕 ピンポン玉を口に含んだように口内に空間を作り、「ぽっ」と発音するような感じ。

 ma〕 p音とm音が類似しているということを念頭に置いていただきたい。[ma]音は「ンマ」と発音すると考えるとわかりやすい。上下の唇をぐっと圧して横一文字に引いて顎の下も緊張してから発声する。その様子が四角っぽい形として表わされている。左下のところが唇だと想像していただきたい。

 bha〕 口をつぐんだm音の形から斜め上に小さな息をぶっと吐き出すような感じなのだろう。左上の小さな丸は、小さな息を表わしていると見なすとよい。

 va〕 英語では唇を噛むが、サンスクリットではむしろ口の真ん中に中くらいの息をためてバッと出す感じなのだろう。[pa]よりも口内の空間が小さくて発音するという点に注意したい。

 ba〕 文字の形が[va]と類似しているが、丸の中の「ヽ」は、おそらく舌だろう。舌先前歯の裏にちょっと近づくのではあるまいか。

 Sa〕 「ヽ」はおそらく舌だろう。そして、この下側(舌と下前歯の間)で摩擦音を出してシャと発音する。shineのsh音だそうだ。

 za〕 この「シャ」は、ふつうのsha音である。口の上のほうで空気が擦れる音がするのだろう。

 ya〕 ヤは[ia]音と言ってもよい。左側「ノ」の弧形は、下唇か舌の動きを表わす。「ノ」はイ音の口で、唇または舌を斜め前下に押し下げ、その後に後ろに引いてア音を発音する。

 tha〕 曖昧に[ya]と発音した半開きの口の形から、舌を使って小さな息をぱっと破裂させる。

 ta〕 普通の[ta]音。かなり明瞭に発音すると考えるとよい。最後は斜め下に舌先が丸まっている。(下の前歯の裏に滑り込んでいる。)

 na〕 [ta]音と同じようだが、舌先がそんなに丸まらない。

 da〕 舌先が[ta]音より前(前歯の付け根あたり)から始まる。やはり舌先が斜め下の丸め込まれる。右の縦棒がないから、[ta]音ほど明瞭に口を開く意識がない。

Ta,Tha,Da,Dha,Na は、反舌音と言われるが、音が内にこもるような感じ。

 Ta〕 英語littleのtに当たる音だそうだ。縦棒がないからta音よりも口を開かない。「トゥア」のような発音なのだろうか。

 Tha〕 Taの半端な丸が完成するので、「トゥハ」と発音して口の中に空気を囲い込むような感じなのだろうか。

 Da〕 [da]音と比べて最後に舌先が前に出る(というかむしろ上に丸まる感じ)のだろうか。

 Dha〕 [da]音と同じようだが、口の中でモソッと破裂させるのだろうか。

 Na〕 舌を最後に口蓋に戻すような感じで、舌で空気を囲い込むような感じだろうか。

 ra〕 ゴロゴロうがいをするような[r]音ではなくて、べらんめい調の[r]音である。英語routeのrに当たる音。舌先が前方斜め上から斜め後ろ下へと急激に移動するのを表わしている。

 sa〕 これも左側はraと同じ形。舌先の終着点は同じと考えられる。形が四角っぽいのは、raよりも息が口内で擦れているからだろう。

 ka〕 左側はvaと同じ形だが、右側に線が出ているのは、口の奥で息が擦れていることを表わす。

 kha〕 仏教の伝統的な発音だとキャという音に近い。ただし、[ka]と言おうとして息が口蓋を擦って激しく前に飛び出るようにする。左側はraと同じ形である。[kra]音ではないのだが、息を強調するとキャに近くなる。

 pha〕 右側にkaと同じ線があるから、むしろ口の奥で息を震わせるようにしてh音を出しているのではあるまいか。

 ga〕 舌の真ん中かやや奥のあたりを口蓋にあて、舌先は上にちょっとだけ丸まる。

 ca〕 英語churchのchに当たる音。左側真ん中の横棒は、下唇をぎゅっと横に引くことを表わす。その下の曲線は、顎の形を現していると思われる。

 ja〕 英語judgeのjに当たる音。横棒は唇の両脇をぐっと引くことを表わし、そのしたの曲線は、下唇を下から丸めて下の前歯に被せていこうとするような感じを表わす。

 la〕 taのように舌の全部を前に出すのではなく、舌の後ろ半分を引くような感じなのだろう。

 gha〕 yaが終わったときの口の形からはじめて、thaのように息を前に破裂させないで、むしろ口の中で破裂させるような感じなのだろう。「グワッ」という音に近いか?

 jha〕 左側はiと同じ形である。したがって[ia]のような発音になるのだろうが、これがyaとは違うことに注意しておきたい。むしろ「ギャ」に近いのではなかろうか。

 Ja〕(ニャ) 口をすぼめて発音する形を表わす。「ニュ」という音で考えたほうがいい。

 以上は私の勝手な想像であり、必ずしも正しい発音になっていないかもしれない。しかし、古代ではそんなイメージで発音されていたのではないかと思うし、また、この記事を参考にしながら自分で口を実際に動かして発音してみると、文字を覚えやすくなるのではないかと思う。


 
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2008年3月16日

流転門・還滅門と順観・逆観

 今回は十二縁起の観法について。ネット検索すると、流転 る てん門=順観,還滅げんめつ門=逆観と見なされているようなのだが、ちょっと違うんではないかと思うので、とりあえず書いておきたい。
 
 
 十二縁起とは「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」という因果の連鎖だが、無明→老死という方向の観法が順観、老死→無明という方向の観法が逆観ということになる。
 
 さて、ダライラマ14世テンジン・ギャムツォ著『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社1995年版のp.32-38)によると、

(1)不浄化のプロセス 縁起の順観 集諦
    無明によって行が生じ……生によって老死が生ずる。

(2)不浄化のプロセス 縁起の逆観 苦諦
    老死は生によって生じ……行は無明によって生ずる。

(3)浄化のプロセス  縁起の順観 道諦
    無明が滅すれば行が滅し……生が滅すれば老死が滅する。

(4)浄化のプロセス  縁起の逆観 滅諦
    生が滅すれば老死が滅し……無明が滅すれば行が滅する。


と分類されている。

 また、水野弘元著『仏教要語の基礎知識』(p.180)では、流転縁起が上記の不浄化のプロセスに相当し、還滅縁起が上記の不浄化のプロセスに相当している。
 
 ちなみに、「流転」とは迷いの世界が展開することであり、「還滅」とは迷いの世界が滅することである。したがって、流転は無明から老死に至る方向性が含意されているのであろうし、その逆である還滅は、老死(の滅)から無明(の滅)に至る方向性が含意されているのかもしれない。ダライラマの本では、不浄なる事物(有漏法)の観点からと清浄なる事物(無漏法)の観点から、不浄化のプロセスと浄化のプロセスとが考えられている。だから、両者に流転と還滅という命名をしたのがそもそも不適切であったのかもしれない。有漏門(有漏縁起)と無漏門(無漏縁起)とでも言ったほうが正しかったのかもしれない。
 
 
 
 まだ経論を確認していないので、なぜこういう用語の混乱が起こってきたのか、あるいは私が何か勘違いしているだけなのかよくわからないが、とりあえず問題点を指摘だけしておきたい。
 
 
 
 
  
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2007年7月 2日

卍の意味

 このブログのアクセス履歴を見ていたら、「卍 意味」でこのブログに来ていた人がいた。確かにこのブログ名には卍がたくさんある。ただし、これは装飾としての卍であって特に意味はない。(笑)

 おそらくこの人は他のサイトで卍の意味を見つけただろうとは思うが、せっかくだからこのブログでも簡単に言及しておこう。(一部の文字が表示されていない場合があります。)

 卍はインドではスヴァスティカと呼ばれ、吉祥を表わす印である。仏像やヴィシュヌ神像の胸などにこの印が付けられている。日本では、寺院の象徴として地図記号にも使用されている。この印はインドのみならず、多少のバリエーションをもって世界に広がっており、そのうち最も有名なのはナチスの鉤十字だろう。


 卍(左まんじ)には、左右反転した (右まんじ)という印もある。日本では主に左まんじ(卍)を使用しているが、インドでは右まんじ( )が聖なるもの、左まんじ(卍)は逆に死を表すものとして区別されることもあるようだ。仏教には厭世的な部分があるから、このような意味づけもわからないでもない。

 右まんじ( )から万の字がつくられたという説もある。おそらく右まんじ( )の左側の腕を省略して以下のようになったのだろう。


 ┌    ┌    ┬― 
└+┐ ⇒ ├┐ ⇒ ├┐ ⇒ 万 
 ┘    ┘    ┘┘  

 卍の象徴的な意味解釈については、私としてもいろいろ思うところはあるのだが、オカルトじみてくるのでここではやめておく。

スヴァスティカ(マンジ)卍(ウィキペディア)卍の漢字についておしえて! に詳しい解説があるので、こちらをご参照ください。


 
 
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2007年6月 4日

慚愧は仏教語です

 「去る者は日々に疎し」で、政界では早くも年金問題で大騒ぎしていて、松岡大臣の自殺は完全に過去の出来事になってしまったようである。さて、そのことに関して安倍首相は「慚愧に堪えない」と発言したという。
 
安倍政権動揺=首相、任命責任認める-深刻な影響・松岡農水相自殺
5月28日19時33分配信 時事通信

 東京都港区赤坂の衆院議員宿舎で自殺を図った松岡利勝農水相(62)は28日午後2時、搬送先の慶応大学病院で死亡が確認された。緑資源機構の官製談合事件などをめぐり、疑惑の渦中にあった現職閣僚の自殺に、与野党は大きな衝撃を受けている。安倍晋三首相は「任命権者だから、閣僚の取った行動に責任を感じている」と記者団に初めて任命責任を認めた。野党側は真相の解明を求めるとともに、農水相を一貫して擁護してきた首相の政治責任を追及する方針だ。参院選を控えて安倍政権は動揺、苦境に立たされた。
 首相は、松岡農水相の自殺について「本当に残念だ。ざんきに堪えない思いだ」と首相官邸で記者団に語った。さらに「有能な農水相だっただけに内閣、政権への影響は大きい」と述べ、深刻な影響は避けられないとの認識を示した。 

最終更新:5月29日1時3分


 
首相コメント「慚愧に堪えず」、「残念だ」の間違いか
 安倍首相が松岡農相の自殺について、「慚愧(ざんき)に堪えない」と述べたことについて、「『残念だ』という意味で使ったのであれば、間違っている」という指摘が出ている。

 「慚愧」は「恥じ入ること」(広辞苑)という意味だからだ。首相周辺は「最近は反省の意味でも使われており、問題はない」としている。

(2007年5月28日23時46分 読売新聞)


 
 安倍首相のこの発言は、いまひとつ分からない。松岡氏が農水相を続けていることが死ぬほど苦しかったという心理状況を慮れなかったことについて「慚愧に堪えない」のならわかるのだが。
 
ただ、「慙愧に堪えない」by安倍総理 のコメント欄に
象牙 Says:
5月 29th, 2007 at 7:28:15
有名作家の方が違和感を表明されて始まったこの議論ですが、経営者が、社内で不祥事が起き、担当者が自殺してしまった時に、「担当者が責任を感じ、そのような事態に至らしめてしまって申し訳ない、外部からの批判からあなたを守りきれなかった、そんな非力な私を、本当に自分自身恥ずかしく思う、申し訳ない」という文脈で使うような気がします。

安倍総理の心境としては、一連のバッシング(批判)に松岡大臣が晒されなければ、このような事態になることはなく(なかったでしょう)、更迭するか否かの判断も含めて、もっと別のやり方をすれば松岡大臣があのような最期を迎えることはなかったのではないか、身内である松岡大臣を守りきれず、結果として自殺者を出してしまい申し訳ない、非力な自分を歯がゆく思う、という意味で、謝罪会見などではごく普通に用いられるような気がします。

とあるが、私もそんなところだろうとは思っている。
  
  
    
 前振りが長くなってしまったが、慚愧は仏教語である。ネットでも仏教語として多少は解説されているようだが、こちらでもまとめておこう。詳しい議論をすると飽きられてしまいそうなので、それはSNS「仏教談話ネットワーク」ですることにして、こちらでは一般向けに、できるだけ簡単に解説したい。
  
  
 まず、慚愧(または慙愧とも書く)は、慚と愧という二つの言葉からなっている。その正反対の心の無慚と無愧から説明していくとわかりやすいだろう。
  
 無慚と無愧は煩悩の一種で、常に悪い心とともに働く。そのうち無慚とは、自らと仏法とを顧みずに賢善を軽んじ拒む心であり、自らの良心に恥じる心を阻害して、悪行を生長させる働きをする。また、無愧とは、世間の目を顧みずに暴悪を崇め重んずる心であり、世間からの非難を慮る心を阻害して、悪行を生長させる働きをする。
 
 それに反して慚とは、自らと仏法との力に依って賢善を崇め重んずる心であり、無慚を押さえ込むことができ、悪行を止める働きをする。愧とは、世間の抑止力に依って暴悪を軽んじ拒む心であり、無愧を押さえ込むことができ、悪行を止める働きをする。
(以上は『成唯識論』巻第六からの意訳。)

 つまり無慚と無愧は、善を軽んじ悪を為しても平然としている恥知らずの心を意味する。ところが人間には、自らの良心に恥じたり、世間の非難を恐れたりして悪行を押さえ込む善い心もある。「慚愧に堪えない」というのは、悪行とまではいかなくとも自らの不徳を激しく恥じるという意味になるのではなかろうか。

 涅槃経には、「無慚愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす。」という激しい言葉もあるが、まあ、慚愧の心が皆無ならば犬畜生にも劣るような行為もするだろう。反対に、「慚愧に堪えない」人はそれだけ多く慚愧の心をもっているのだろうから、多少の悪事をしてもまあ善人だとも言える。しかし世間では、人並み以下の慚愧の心で悪行を大々的に為し、それが白日(はくじつ)のもとに照らされて初めて慚愧の念をもつ人も多いように思われる。「バレなきゃいい」もまた、無慚・無愧の心であろう。
  
  
 瑜伽師地論には、以下のような一節がある。(世俗の文脈に置き換えたので原意と多少ズレているかもしれない。)
  

無慙無愧の心を起こしているのだと、五つの様相から知るべきである。
  
一、汚れた行為をしているのに恥じることなく、
二、善い行為をしていないのに恥じることなく、
三、不法に受け取っているのに恥じることなく、
四、悪い友に親しみ近づいているのに恥じることなく、
五、なすべきことをがんばって成し遂げることができないのに恥じることなし。
  
この五つと反対の様相で、慙愧の心が起こっていると知るべきである。

  
  
   
 最後に、慚愧に関してなかなかよいことを書いているサイトを紹介し、引用する。
  
  
維摩経(ゆいまきょう)から考える
 「慚」は独り自ら省みて恥じるという意味であり、「愧」は他人の眼、世間の眼を気にして恥じるという意味である。
 「慚」とは、自分のこれまでの生きざまに対する絶望から生まれてくる。エゴを意味する自我が崩壊する過程に生まれてくる心の底からの痛恨である。「慚」は、全く呼吸ができないというほどの痛恨をともなうことがあり、ときに自殺することさえあるといわれるほど激しい魂の慟哭である。
 宗教心は、自分自身の在り様が問題となるとき、初めて作動し意識の俎上に登ってくる。魂の堅琴に触れてくる。「慚」は宗教心の生まれる源泉である。「慚」はルース・ベネディクト女史のいう「罪」という表現に十分拮抗しうる魂の営みである。
 ところで道徳(モラル)は、自分の在り様から生まれるが、自分の在り様そのものを問題としない。良心は自分が人間であるという「存在性から」生まれる。しかし、それだけだ。これに対して慚は、自分が人間であるという「存在そのもの」を問う全人的な営みに根を持つ。
 要するに「慚」は、自らの地獄を体験する中から、仏教的にいえば「空」を体験する中から生まれてくるのである。
 世評とか世間の眼など、まったく入る余地のないのが「慚」である。

  
反省と懺悔(2005/01)
慚愧というのは、仏さまの眼(まなこ)を通して徹底的に自分が見抜かれていく世界である。仏さまによって見通された掛け値なしの自分に本当に肯けた世界を懺悔(さんげ)という。その懺悔から生まれる世界が慚愧である。
 涅槃経には「慚愧あるが故に云々」という標記の言葉に先立って、人間が本当に救われていく唯一の道として慚愧ということが説かれ、そして「無慚愧は人(にん)とせず、名付けて畜生とす」という言葉が置かれている。つまり、人間が慚愧の心=羞じるという心=を無くしてしまったら、もうそれは人間ではないということだ。
 言い換えれば、慚愧の心を失って仏さまから人間失格を宣言されると、戸籍上の親子兄弟として生活を共にしていても、それは心の繋がりを忘れてしまった形だけのものだということだ。

  
  
  
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